5/13 親子哲学カフェ やってきました~!
今回のテーマは小学生より出ました。
「手伝いは仕事なのか」
その子は手伝いだから、やらない日があってもいいはずなのに、「仕事だからやりなさい」と母に言われたのだそう。
そこで、これをテーマに考えたいということでした。
今回は親子5組+先生方と先生のお子さまとで行いましたよ。
親側は、
将来のために(練習として)やらせたい。
いや、勉強と習い事と遊びが子どもの仕事だから、手伝いを強制する(それは、すでに「仕事」でしょ)ことはない。
子どもは、できたらやりたくない。将来必要なことだと思っている。でも褒めてほしい。
など、多くの考えがでました。
そんな中でも一番キーワードになっていたのは「手伝い」と「仕事」は違うとの考え。
私たちの対話では掘り下げられたり、話が前後したりとずっとそのキーワードを追いかけ続けることは難しかったです。
でもそれは、集中が切れたのではなく、考えてたけれど答えが出せなかったから。
ですが、みな心のどこかにそれが引っかかってどうにか形にしようともがいているように感じられました。
終わりでも答えはでぬまま。でも、自分なりに感じたことはきちんと言葉に置きかえることができ、頭の整理はされたようにも思いました。
先生のご感想を頂きましたので、載せますね。
執筆者は、前回もご参加くださった平澤孝枝先生(専門は脳科学、行動神経学)に加えて、滝澤武先生(専門は体育、スポーツ倫理)。
滝澤先生は、昨年7月の哲学カフェ(第1回)にも参加してくださっています。
滝沢先生は、過去に福島県で哲学カフェを開催したことがあります。
☆----------以下、滝澤先生より----------☆
昨年の7月に親だけの哲学カフェに参加させていただき、今度で2回目になります。
今回は、親子でいうことでしたので、小学生と哲学対話をすることができるのか、正直言って不安でした。しかしながら、「なんだ、哲学対話のルールに従えばいいのか」と、その不安も始まってすぐ解消です。対話のスタートは、子供にとってのお手伝いと仕事がテーマでした。私にとっての家事についてのお手伝いと仕事を考えました。私が小学生のころ、大学で一人暮らしを始めたころ、子供が生まれたころ、どうだっただろう。
お手伝いが自分にとっての仕事に変わったのは、いつからだろう。何か条件が違ったのだろうか、そのとき、お風呂焚きやお皿洗いに期待されていたものは、何だったんだろう。
親に怒られた時は、期待されていたものとその成果にギャップがあったとき。期待されるレベルを確認すればいいかも。そんなことを子供たちと哲学対話をして考えることができました。小学生の子供たちと哲学対話をしながら、お手伝いと仕事がわからなくなってきました。また、この続きを考えていきたいと思います。楽しい時間ありがとうございました。
今回は、親子でいうことでしたので、
お手伝いが自分にとっての仕事に変わったのは、いつからだろう。
親に怒られた時は、
☆----------以下、平澤先生より----------
―お手伝いと仕事の違いって?―
今回の対話は親子で参加だったので子どもの考えていることが聞けて面白いスタイルでした。また、今日は昔(子どもの時)の自分と今の自分を比較出来た回でした。確かに、お手伝いって子どもの頃はやらされてる感が満載だったなと思います。でも、その時自分はそんなに疑問を持っていなかったので今日は思っている事は同じだったというのと疑問を口に出せるのはすごいなーと感心していました。親は確かに自分で暮らせる様にとか女の子だからとか言っていました。で、自分で一人暮らしをするとお手伝いしていると出来るかと思うとそう言う訳でもなく、私の場合一人暮らしにお手伝いは全く活きていませんでした・・。お話した様にずっと私の友達は大学時代から遊びにくると部屋、冷蔵庫、台所などあらゆる所を3人で掃除して帰っていきました(笑)。あ、でもどうしても自分でやらないといけない所は自分でやれと言われてましたね。そんでもって今も職場は大体諸々の事は周りの人がやってくれています。この場所にこれがあるのは分かってるとか言ってましたが、改めて考えると私にとって仕事部屋は実験をしたり、講義をしたりすることであって部屋の散らかり具合や諸々はそこに支障が出たら掃除をしないとダメだと思う位の差し迫ったらやるの範疇で、廊下が散らかってると迷惑かなと思うので気になりますが、自分の部屋はあんまり気にしない。多分もしかしたら、周りはもう気になっているのかもしれません。でもお家でどうかというと、大体同じですが(笑)、違う部分もありました。やはり何かがない時に八つ当たりをされるのでちゃんと片付けてと言うと自分のタイミングでやるからと逆怒られたりします(なんだよ〜くっそー)。家のルールも社会のルールと同じで自分の感性や考えだけではなく相手の感性や考えも必要でとても合わせるのは大変なんだなと再確認しました。そう思うと私の友達は結構ズカズカ入るのに色々考えたのかもしれません(いや、考えてなかったと思う長い付き合いだから)。対話終了後、家に帰ってお手伝いと仕事の違いを息子(小6)にも聞いてみました。うちはお手伝いしませんって自分でも奴は言ってましたが、彼にとってお手伝いは他人のためにする事で仕事は自分のためにすることだそうです。家事は彼の中では全く自分の生活に関係ないのですね。。
悔しいかな、自分の中であ〜と思ってしまいました。だからお手伝いはありがとうと言われるとうれしいのだな。
悔しいかな、自分の中であ〜と思ってしまいました。
☆-----以下、江口先生より--------------☆
いや~ とっても賑やかな対話になりました。
開始するなり、いきなり園児を膝に抱いてのルール説明となりました。
開始するなり、いきなり園児を膝に抱いてのルール説明となりまし
園児をプーさん代わりに抱いて喋るの、案外、気持ちいいです。
《子どもにとってのお手伝いは、仕事か?》というテーマで対話を開始したわけですが、「どんな家事ならやってもいい?」という質問に対して、子どもたちから、
「お風呂洗いはやってもいい」
「お布団の上げ下ろしは、重いからイヤ」
「お風呂洗いは、むしろやりたくない」
「習い事があるときは、あんまりやりたくない」
「お皿洗いは、やったほうがいい」
など、いろいろな意見が出ました。
「お風呂洗いはやってもいい」
「お布団の上げ下ろしは、重いからイヤ」
「お風呂洗いは、むしろやりたくない」
「習い事があるときは、あんまりやりたくない」
「お皿洗いは、やったほうがいい」
など、いろいろな意見が出ました。
「じゃあ、家事って、誰の仕事?」という問いかけのあたりから、徐々に哲学的な深まりを見せ始めたような気がします。
「家族みんなの仕事」、「家族の一員だから協力して当たりまえ」という意見から、「うちでは家事をやらせない」、「家事は母親の仕事」、「子どもには勉強と部活を精一杯やってほしい」、「役割をはっきり決めずに、自然に役割分担ができてゆくのがよい」など、これまた様々な意見が出ました。
対話してゆくなかで、何度か議論が深まりかけたときがあって、そのきっかけは、私の見るところ、「将来、必要になる」、「子ども本人のため」という視点です。
つまり、そもそも手伝いは、誰のためなのか。
あるお母さまが出してくださった意見の中で、「自分が病気のときに起き上がれなくなって、夫がごはんが炊けなかった」というエピソードがありました。
ここから、「つまりは、お手伝いではなく、本人のためなのか?」という論点が浮かび上がってきます。要するに、困っている人を助けることではなく、あくまでも本人の将来のために、お手伝いは必要である、と。
しかし、対話を進めてゆくうちに、「自分で必要に迫られて『やらなきゃ』と思ったら、それはもうお手伝いではない」という意見が出て、内心、ハッとしました(この「ハッとする」というのが、哲学対話では「気づき」=「思考が動き出すきっかけ」と呼ばれます)。
また、「お手伝いとは、他人のためにする事であって、自分のためにすることは仕事である」という意見も出ました。
もしもそうだとすれば、「本人のため=お手伝い」という図式は崩れます。あくまでも困っている人のために手を差し伸べることが「お手伝い」であるならば、本人のためになるかどうかは関係がないはずです。逆に、本人のためになることを今のうちから仕込んでおくことがお手伝いだと言うならば、それはもはや「お手伝い」ではなく「教育」または「しつけ」である可能性がある。
「家族みんなの仕事」、「家族の一員だから協力して当たりまえ」
対話してゆくなかで、何度か議論が深まりかけたときがあって、そ
つまり、そもそも手伝いは、誰のためなのか。
あるお母さまが出してくださった意見の中で、「自分が病気のとき
ここから、「つまりは、お手伝いではなく、本人のためなのか?」
しかし、対話を進めてゆくうちに、「自分で必要に迫られて『やら
また、「お手伝いとは、他人のためにする事であって、自分のため
もしもそうだとすれば、「本人のため=お手伝い」という図式は崩
それどころか、本人がそれに「やり甲斐」を感じれば、それはすでに「お手伝い」でもなければ、「教育」でもなく、自分の「仕事」なのではないか(対価報酬の有無はともかくとして)。
つまり、子どもが、みずから「自分のためになる」と自覚して、率先してお手伝いをやり始めた時点で、それはすでにお手伝いではない!!?
このあたりから、私の脳はめまぐるしく回転し始めましたが、続きは、いずれ論文に書きたいと思います。
つまり、子どもが、みずから「自分のためになる」と自覚して、率
このあたりから、私の脳はめまぐるしく回転し始めましたが、続き
対話の途中、参加者の中から、「そもそもお手伝いとはどういうことか、分からなくなった」という言葉が漏れたとき、今回のカフェも大成功だと思いました。
大人の頭の中にあるシナリオに沿って、「家事はみんなでやりましょう」、「お手伝いは率先してやりましょう」という話の流れになることだけは、絶対に避けたいという想いがありました。
むしろ、「なぜみんなでやらなければならないのか」、「本当にやらなければいけないのか」、「家事は誰の役目なのか」、「そもそも何のためにやるのか」――こういったことをゼロから考えること。
それが、哲学カフェの冒頭で説明した、「いつもは考えないことについて、初めからじっくり考えてみる」ということの意味です。
「思い込み」を捨て、「当たりまえ」を疑ったうえで、「初めから」とことん考えてみる。
これこそ、道徳の教科化に伴って、これから本当に必要となる心構え、すなわち、「教え込む」道徳ではなく「共に考える」道徳、「心情を理解する」道徳ではなく「議論する」道徳の基本の構えだと私は考えています。
大人の頭の中にあるシナリオに沿って、「家事はみんなでやりまし
むしろ、「なぜみんなでやらなければならないのか」、「本当にや
それが、哲学カフェの冒頭で説明した、「いつもは考えないことに
「思い込み」を捨て、「当たりまえ」を疑ったうえで、「初めから
これこそ、道徳の教科化に伴って、これから本当に必要となる心構
今のうちから、これを訓練しておけば、あとですごく役に立つだろうな~
と、内心、ひっそり思いました。
と、内心、ひっそり思いました。
それにしても、入場するなり、率先して「お菓子配り」と「コーヒー淹れ」を手伝ってくれた子どもたち。
テキパキと大人たちにお菓子を配ってゆきます。
なんだ、みんな、言われなくても、お手伝い得意じゃん。
(お菓子だからか?)
テキパキと大人たちにお菓子を配ってゆきます。
なんだ、みんな、言われなくても、お手伝い得意じゃん。
(お菓子だからか?)
それと、最後まで居残って、お片づけを手伝ってくださった人たち
何も言わなくとも、自然に動いて、机や椅子を直してくださって。
「あ、お手伝いって、こういうことか!」と感激しました。
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