仙台藩祖伊達政宗の家臣で、慶長遣欧使節団を率いた支倉常長の直系子孫に当たる方が、75歳で亡くなったそうです。

支倉常長家の13代当主。
慶長遣欧使節出帆400年記念事業の2014年にスペイン訪問した平成青少年遣欧使節団の団長、仙台藩志会理事、仙台日伊協会理事を務めた。

母校の川内キャンパス(仙台城二の丸跡)に、「支倉常長像」があります。

勿論、直接存じ上げませんが、400年も前から続く家系なんて・・・凄い。

確か伊達家の子孫の方もご健在なはずです。

慶長遣欧使節は、約400年前、仙台藩主伊達政宗が仙台領内でのキリスト教布教容認と引き換えにノビスパニア(メキシコ)との直接貿易を求めて、イスパニア(スペイン)国王およびローマ教皇のもとに派遣した外交使節。
使節に選ばれた政宗の家臣支倉常長は、宣教師ルイス・ソテロとともに、仙台藩内で建造された洋式帆船「サン・ファン・バウティスタ」で太平洋を渡り、メキシコを経てスペインに至り国王フェリペ3世に謁見、さらにローマに入り教皇パウロ5世に拝謁。

しかし、幕府のキリスト教弾圧などから目的を達することができず、7年後の1620年に帰仙。
武田信玄の16代目の子孫という方とお会いしたことがあります。
信玄は俗名「晴信」でしたが、その方も「武田〇信」さんでした。

武田氏と言えば、武田二十四将という無敵の軍団が有名ですが、その子孫の方々の集まりもあるそうです。

また、信玄に所縁のある場所に招かれたり、上杉謙信の子孫の方との交流もあるそうです。

その武田さんからお聞きした話で印象に残っている逸話があります。

無敵だった武田軍団(武田勝頼)が織田信長との闘いに敗れたのが「長篠の合戦」でした。

この合戦があった場所のイベントに招かれたことがあったそうです。
ご本人は、武田軍勢は、地元の人にすれば憎き敵のはずで、やや心配して参加されたそうです。
ところが、地元の子孫の方々は、先祖からずっと武田軍をリスペクトしていることを知って驚いたそうです。
武田軍の戦では、決して地元民の集落や田畑を荒らさなかったから。

山峡の甲斐の国では、限られた田畑は、何にも代えがたいものだったからなのかもしれません。
「人は石垣、人は城・・・」の武田イズムなんでしょう。
・・・昔の出来事に思いを馳せるのもいいものです。