最近の子は道具を使うのが苦手です。それは「意識とつなげた状態で指や手を使う事が出来ない」ということでもあります。

トンカチやノコギリといった「腕全体を使うような道具」も苦手ですが、裁縫の用の針や羊毛用のニードルといった「指先で使う道具」を扱うのも苦手です。
輪ゴムをつなげるのもヒモを縛るのも苦手です。ハサミの使い方も下手です。コンパスや定規の使い方も下手です。そして、そのような活動を嫌がります。
(下手でも好きなら問題ありません。上手下手の問題ではなくそのような行為を楽しめるか楽しめないのかということです。)

生活の場から、そういうものを使う機会が消えてしまったのですから使えなくても当然といえば当然です。だから、子ども達のそのような状態を問題視している人も少ないです。
ほとんどのお母さんは、我が子がナイフが使えなくても、竹とんぼが飛ばせなくても、靴のヒモが結べなくても気にしません。そもそも、子どものそのような状態を知りません。
多くのお母さんが気にしているのは、学校の成績と周囲からの評判だけです。

でも実は、道具が使えない、指や手が使えないというのは、子どもの成長から見たら非常に大きな問題なんです。なぜなら、腕や指に意識を向けることが苦手な子どもは考えることも苦手なことが多いからです。

「使う必要がないのなら使えなくても問題はない」というのは「社会の都合」であって、「命やからだの都合」ではないのです。


「命」とか「からだ」というものは、意識や心や肉体も含めて「システム」として機能しています。そして、成長するということはそのシステムとしてのつながりが維持された状態で、システムがさらに複雑化していくことです。

心やからだ、知性や、思考力や、感性がバラバラに成長していくのではなく、全てがつながった状態のままで、相互に影響を与えながら一緒に成長していくのです。
そのため、現代社会では必要がない能力だからといって、その能力の育ちを無視していたら、その遅れにつられて他の能力の育ちも遅れてしまうのです。


ヘレンケラーのバラバラになった心の中が一つにつながったのは、水に触れた時の手や指の感触とサリバン先生がヘレンの手の中に書いた「ウォータ」という言葉がつながった時です。

ちなみにヘレン・ケラーは見ることも聞くことも話すことも出来なかったので、手のひらに指で文字を書いて言葉を教えたそうです。(それようの文字があるそうです。)
それが可能なのは指や手のひらの感覚の分解能が高いからです。
指や手の感覚能力は目や耳の感覚能力に匹敵するのです。

現代人でも「思考力」(考える能力)は大切だと思っています。だから、勉強などでも「もっと考えろ」と子どもに要求しています。
パスカルという哲学者は「人間は考える葦である」ということを言いましたが、でもその「考える能力」は生まれつきのものではありません。
生まれつきなのは、「様々な体験を通して考える能力を獲得する能力」であって、「考える能力」そのものではないのです。でも、多くの人がそのことを知りません。

その「考える能力」を育てるために一番大切なのが、「見ること」と「聞くこと」と「指や手を使う活動」なんです。このセットが重要なんです。
だから赤ちゃんは本能的に、自分の指を舐めたり、色々なものを叩いたり、破ったり、いじくり回したりするのです。お母さんやお父さんが大切にしているものにふれて壊して叱られたり、積み木を積んで遊んだりするのです。

でも現代人は子ども達からそのような「困った活動」を取り上げてしまいました。でもそのことが、子ども達の「考える力の育ち」を阻害する結果になってしまったことには気付いていません。