(これは10年くらい前にアップしたのと同じものです)

今日はクリスマス・イブです。
「クリスマスとは何の日か」といえば、宗教的には「イエス・キリストの誕生を祝う日」のことです。ただし、実際にはイエスがいつ生まれたのかは分かっていないので、「誕生日を祝う」のではなく、「誕生を祝う日」ということになります。

じゃあどうしてこの時期が選ばれたのかというと、「冬至」に近いからからです。(なぜ22日ではないのかは私には分かりません)

冬至は一年で最も「闇」が長い日です。その日を境に、「光」が増していきます。そのため、古来より冬至は「死と再生」を象徴する特別な日だったのです。キリスト教が生まれるずーっと以前から「死と再生を祝う特別な日」だったのです。

日本でも冬至の日は「死に一番近い日」と言われており、その厄〔やく〕を払うために体を温め、無病息災を祈っていました。この慣わしは現在も続いています。


その「死と再生」を象徴する日が、象徴的に「キリストの誕生日」として選ばれたのです。

この「死」と「再生」という働きは生命の働きを支えている根本原理です。「死」があるから「生」があり、「生」があれば必ず「死」もあります。「死」と「生」は表裏一体のものなのです。

全ての生物の細胞は毎日死んで、毎日生まれ変わっています。そうやって生物の生命を支えているのです。

死と再生を繰り返すことで新陳代謝が生まれ、生命が維持されているのです。つまり、毎日死ぬ細胞があるから、生命は毎日新しく生まれ変わることが出来るのです。

それと同時に、毎日のように大人が死ぬことで子どもが産まれてきます。大人が死ななくなったら、世界中に大人ばかりが溢れてしまい、子どもが生まれてくる余地がなくなってしまいます。

よく、不老長寿を願う人がいますが、実際に人が死ななくなったら、世界は老人ばかりになり、子どもが産まれなくなり、人類は活力を失い、やがてミイラのような状態で生きることになるでしょう。それが幸せな社会であるとは思えません。
もっともそれ以前に、人口が増えすぎて食料が枯渇してしまうと思いますけど。

「死」は苦しくて、遠ざけたいことですが、時が来たら受け入れなければならないことでもあるのです。でも、現代人は「死」を恐れ、遠ざけようとするばかりで、「死を受け入れるための哲学」を持っていません。

医学においては「死」は「敗北」を意味します。だから、生きているか死んでいるか分からないような状態でも管をいっぱい付けて、死なないようにします。

その努力が無意味だとは思いませんが、でも、どこかで「神様に生命を返す限界」を肯定的に受け入れる必要もあるのではないでしょうか。「死」があるからこそ「生きていること」が大切なことになるのですから。

生物界においては、生命というものは子どものためにあるものです。ですから多くの生き物が子どもを生んだ後、また子どもを生むことが出来なくなったら死を迎えます。自然界には「老人」は存在していないのです。

ただ人類だけが、子どもを生むことが出来なくなった後も長く生きることが出来るようになりました。だから文化や文明が生まれた、という説もあります。「老人」という存在が子育てや、文化や、文明の発生と継続に大きな役割を果たしたのです。

若い大人達は毎日の生活が忙しいので、子どもの相手をする時間も、子どもを見守る時間も、子どもに色々なことを教える時間もありません。そういうことは、一線を退いた老人達の仕事だったのです。

つまり、「老人の発生」は同時に「教育者の発生」だったのです。

年寄り達は食料をとることも、敵と戦うことも、何かを生産することも苦手です。だから、現代では年寄り達は「弱者」として保護されています。でも、年寄りが子どもや大人に様々なことを教える教育者として機能していた時代には、年寄り達は感謝され、尊敬されていたのです。

そして実際、「人間を育てる」という面では老人達は若い大人に勝っていたのです。

なぜなら老人達は、全体を俯瞰する目を持ち、子どもの成長に合わせて待つことが出来たからです。そして、自分たちの残り少ない生命を子どもたちに与えることが出来ました。それがまた老人にとっての希望でもあったのです。

ですから、「サンタクロースという老人が、子どもたちにプレゼントを与える」という出来事には非常に象徴的な意味が含まれているのです。

でも、今の老人達は社会にお世話をかけながら、自分のためだけに時間を過ごしています。それでも何らかの「生き甲斐」を持っている人はいいのですが、そうでない人はただ「余命」という貯金を切り崩して生きているばかりです。その先には希望がありません。だから待てないし、暴走するのです。


また、クリスマスを象徴するものに「プレゼント」があります。子どもたちに「クリスマスって何の日」と聞くと「プレゼントをもらう日」と答えます。

でも、これは間違いです。クリスマスは「プレゼントをもらう日」ではなく、「プレゼントをあげる日」なんです。「プレゼント」とはそういう意味です。

クリスマスが「プレゼントをもらう日」なら、子どもは「もらうだけ」、大人は「あげるだけ」になってしまい、その関係性が一方的になってしまいます。それでは大人は損をするばかりです。だから、「サンタさん」からではなく、「お父さんからのプレゼント」にして子どもから「感謝という見返り」をもらおうとしてしまうのです。

でも、サンタさんは一切の見返りを求めません。よく「いい子にだけプレゼントが来るんだよ」というようなことを言う人がいますが、サンタクロースはそんなことは言わないはずです。

なぜなら、サンタクロースは、子どもたちを「よい子にするため」にではなく、「全ての子どもたちの幸せを願って」プレゼントを配っているからです。「よい子」にしたいのは親です。サンタクロースはただ幸せを願っているだけです。なぜならそれがイエス・キリストの願いでもあったからです。

実際、「子どもをよい子にするためのプレゼント」なら、サンタクロースなどという匿名の人物ではなく親の名前で渡した方がずーっと効果的なはずです。「いい子にしていないとプレゼントをあげないよ」と脅すことも出来るでしょう。
でも、何の見返りも求めないのが「サンタクロースのプレゼント」なんです。

そして、実はこの「見返りを求めないプレゼント」の精神こそが、みんなが幸せに生きることが出来る社会を作るためには絶対に必要なのです。これは必ずしもキリスト教とは関係がありません。

昔の人が地獄と天国の違いをうまく「お話」にしています。
長い箸を持ってごちそうを自分が食べようとしているのが地獄で、同じ長い箸で前の人に食べさせてあげるのが天国だというのです。

見返りを求めず、他の人にプレゼントするから、周り回って自分にもプレゼントが還ってくるのです。それが天国のシステムです。

でも、みんながもらうことばかりを考えていては、結局誰もプレゼントをもらうことが出来なくなってしまうのです。それが地獄のシステムです。

ですから、子どもたちがみんな、プレゼントをもらうことばかりを期待するようになり、プレゼントあげることをしなくなったらこのこの世界は不幸になるのです。

どうか、皆さんもクリスマスを「プレゼントをもらう日」ではなく、「プレゼントをあげる日」にして下さい。

子どもたちもまた、お友達にプレゼントをあげるよう、お母さんと一緒にプレゼント作りを楽しんでみて下さい。

では、良いクリスマスイブをお過ごし下さい。

メリー・クリスマス