皆さん、こんにちは。参議院議員の森まさこです。

~『取り立てに怯えた少女が大臣になった』
    第七章 故郷福島を襲った東日本大震災 第2回~

 

今回は前回に引き続き、第2回目となります。


 
《手探りで家族を探す》
 ご遺体があがっていない人たちは、海のほうまで直接捜しに行った。
 津波は第一波、第二波、第三波と連続して押し寄せてくるが、波が引いた後も海の水が一挙になくなるわけではない。平地でもでこぼこがあるから、水はしばらくの間残り、そこらじゅう水浸しになっている。そこへ行方不明者を捜しに行く人たちがいた。
 自分の家が建っていたと思われる場所で、〝ここら辺かな〟と見当をつけて膝くらいまである水たまりに入っていく。前方には果てしない大海原が広がっているが、足元の水は茶色く濁って何も見えない。そこに裸足でジャブジャブと入っていって手や木の枝で探りながらご遺体がないかと捜すのだ。たまった水は放射性物質で汚染されているかもしれない(と当時は思われた)。それでも寒さにふるえながら冷たい水の中に入っていった。
 それはもう涙なくしては見られない光景だった。とてもカメラなど向けられない。プロのカメラマンなら撮ったかもしれないが、私にはできなかった。今の私には言葉で説明することしかできない。
 放射能については、当時、正確な情報はなかった。後からわかったことだが、風は北西の方向に吹いていたので、放射性物質は南相馬市の沿岸部(福島第一原発の北)にはそれほど飛んでこなかった。その代わり、風の通り道にあたる浪江町や飯舘村、葛尾村、川俣町などに降り注いだ。
 その日、沿岸部で行方知れずの家族を捜していた一人に、家族四人を亡くした上野敬幸さんがいる。
「森先生、倖太郎はまだ三歳なんですよ。ここが家なんです」
 上野さんは「倖太郎、倖太郎」と息子の名前を呼びながら懸命に捜していた。へルメットに「倖太郎(3歳)」と大きく書いて。私は胸がつまり、何も声をかけてあげられなかった。写真も撮れなかった。だけど、そのときの上野さんの姿は今でも脳裏にくっきりと焼きついている。一生忘れることはないだろう。
 2016年の夏になって、上野さんと再会する機会があった。私のことを覚えてくれていた。倖太郎君はまだ見つかっておらず、今も捜している。

《見えてきたいくつもの課題》
 被災地に入って見えてきた課題はたくさんある。たとえば遺体検案の問題がそうだ。住民たちが自力でご遺体を捜しているとき、ご遺体を見つけても、触ってはいけないと役所の人に言われたという。
 法律上、死因は何なのか、事故で死んだのか事件で死んだのかといったことを、きちんと調べなければいけないことになっている。それを遺体検案という。しかし、この場合の死因はほぼ災害による死亡であろう。事件である可能性は限りなく低い。
 また遺体安置所で確認を終えた遺族としては、傷みが激しくなって腐敗が進む前に火葬したい。早く焼いてお骨にしたいと考えるが、その前に必ず遺体検案をしなければならない。医師のサインが入った死体検案書がないと火葬場で焼くことはできないというのが、法律上の決まりである。
 ところが、何十人、何百人というご遺体があるのに、医師が一人、二人しかいなければ、検案が追いつかないことになる。検案にあたる医師が不足する中で、法律を杓子定規に運用するだけでいいのかという問題が生じていた。
 私は現場から自民党本部の対策本部にいた同期の丸川珠代議員に電話して、簡易的にやる仕組みを作ってくださいとお願いした。丸川議員はすぐに動いて、仕組みを作ってくれた。
 被災地で起きていたもう一つ大きな問題がガソリン不足だ。私は被災地の実情を把握して、いろいろな問題をメモして帰り、自民党本部で検討してもらった。また東京・福島を往復して何度も支援物資を届けたが、自分一人だけでは間に合わないので、後援会の人に頼んでいわき市からトラックで物資を取りに来てもらった。
 しかし当時、福島県ではガソリン不足が深刻になっていた。放射能汚染への不安から福島県にガソリンが入ってこなくなったためだ。これにより、多くの人が避難しようにもできなくなってしまった。親戚を頼って東京に行きたいと思っても、電車は止まっているし、ガソリンスタンドにガソリンがないから車で移動することもできない。通常、福島県へは仙台のタンクからガソリンを運んでくる。そのタンクが震災で壊れてしまった。代わりに、東京や新潟から運んでもらう必要があるが、タンクローリーの運転手が運搬を拒否したという。原発の被災地には入りたくないという理由からだ。
 ガソリンがないために亡くなった人もいる。ガソリンスタンドが八方手を尽くしてガソリンの調達に努めている間、スタンドには給油待ちの長い車の列ができる。三月の福島はまだ寒い。寒いからといって車のヒーターをつけたのではガソリンが減ってしまう。そこで列に並びながら車内で練炭を使っていた男性が、一酸化炭素中毒で亡くなったのだ。
 不足したのはガソリンだけではない。食料はもちろん、コンビニも薬局も閉まってスーパーも開かないから生活に必要なあらゆるものが足りなくなった。
 水もなくなった。地震で水道管が損傷するなどしたためだ。支援物資で水が大量に届くと、配給があった。それでも足りなくて、被災地ではお風呂にもなかなか入れなかった。

《被災地の四重苦》
 福島県民は地震、津波、原発事故、そして風評被害の四重苦に見舞われ、想像を絶する苦しみを味わった。窃盗が起きたり、遺体検案を行う医師が災害救助法上では公費負担のはずの検案書作成料を、ご遺族に請求したりするようなことまで起きていた。
 政府は3月15日、原発から20〜30キロ圏に屋内退避の指示を出した。たたみかけるように同25日、同圏内の住民に自主避難を要請。結局、原発周辺自治体の多くの住民が故郷を離れざるを得なくなった。
 自主避難の対象外の地域でも、住民たちは放射線のことが心配で不安を募らせていた。被ばくを避けるためできるだけ外出を控えた。子どもたちはずっと家の中にいてストレスがたまる一方だった。
 四重苦に翻弄される被災者たちの姿を目の当たりにしていた私は、政府の対応がもどかしくてならず、たびたび国会で質問に立った。
「福島県民は、家族、仕事、ふるさと、人間にとって大切なものを奪われ、さらに原発の放射線に怯えています。今も災害は終わっていません。原発地域の住民や高線量地域の子どもたちが被ばくした値はどれくらいなのか、それが将来どういう影響を及ぼすのか、いつになったらふるさとへ帰れるのか、子どもたちは健やかに成人し、幸せな家庭を築いていけるのか、今も毎日浴び続ける放射線がどのくらいなのか、毎日毎日不安でいっぱいで眠れません。
 私は、震災直後、この予算委員会で被災地の現状を伝え、さまざまなお願いをいたしましたが、今三カ月を迎える現在、私たちは、救済が遅い、足りない、心がないと大きな声で訴えたいと思います」
 これは2011年6月3日、参議院予算委員会(NHK中継)で政府の対応を質したときの冒頭発言だ。私は当時自民党で最も多く同委員会で質問に立たせていただいた。
 福島県から戻ってすぐ、防災服のまま国会に出て被災地の窮状を訴えたこともある。一日でも早い救済と手厚い支援を求めたが、事態の改善にはつながらなかった。
 だからといって手をこまねいているわけにはいかない。私は復旧・復興を進めるには法律を作るしかないと考え、自分で法律を起案することにした。
 

《待っていたら復興は進まない!》
 その一つが「原子力被害者早期救済法」である。わかりやすい呼び名で「仮払い基金法」ともいう。被災地からは「お金がないからその日の暮らしもままならない」「仮設住宅に入ってもお金がない」「もっときめ細かな放射線対策を」という声が多数届いていた。東京電力は一部の人に賠償金の仮払いを行っていたが、動きが遅く、きわめて不十分だった。
 多くの被災者が生活に苦慮しているのに、時間のかかる損害賠償を東電任せにするのはどう考えてもおかしい。この問題は国の責任で解決する必要がある。こういう観点から私は、原発被害者の人たちを金銭的に支援し、早期に救済する法律を起案した。仮払い基金法は、自民・公明など野党共同提案の議員立法として2011年7月29日に成立した。
 同法に盛り込んだ内容は二つある。一つは、国が賠償金の仮払いを行い、そのお金は後から東電に請求するというもの。もう一つは、原子力被害応急対策基金の創設だ。国による仮払いを可能にすることで、「早い」「額も増える」仮払いができるようになった。
 また原子力被害応急対策基金は、原子力被害対策ならどんなことにも使えるところにポイントがある。避難指示対象地域、警戒区域、特定避難勧奨地点などの枠組みにとらわれず、柔軟な使い方ができるように工夫した。立法時点では、自主避難費用や避難者の一時帰宅費用、除染費用、放射線測定器の購入、被ばく検査の費用、風評被害対策などを想定していた。基金創設後の実際の使い道は、福島県が決めている。
 2011年8月12日に成立したのが「がれき特措法」(東日本大震災により生じた災害廃棄物の処理に関する特別措置法)だ。これは自民案をもとに与野党共同提案で作った議員立法である。
 私が実際に各市町村を歩いて写真を撮りそれをツイッターやフェイスプックに載せたが、震災で発生したがれき(災害廃棄物)はあまりに膨大で、各自治体が処理しようにもどこからどう手をつけていいのかわからないほどだった。流木なら流木、コンクリートならコンクリートと初めから分別されていれば処理しやすいが、現実のがれきはあらゆる廃棄物がごちゃ混ぜになっている。これを分別処理するのは非常に難しい作業だ。
 そこでがれき特措法では、がれき処理における国の責務を明確にした。その上で、専門的な知識・技術が必要な場合や広域的処理が求められる場合などに、市町村の処理を国が代行できるようにした。
 同年11月21日には、「二重ローン救済法」(東日本大震災事業者再生支援機構法)が成立した。これも自民発案・与野党共同提案による議員立法だ。
 被災した中小企業が事業再開のために借り入れを行おうとしても、被災前の債務が残っていれば二重ローンになる。返済の目途が立たなければ、借り入れはできない。そうした企業を支援しようというのが立法の趣旨である。
 ほかにも、「除染法」(放射性物質汚染対処特別措置法)、「復興特区法」(東日本大震災復興特別区域法)などが議員立法で制定された。
 このように、自民党は当時、野党だったけれども、政府提出法案を待たずに(待っていたら復興は進まない!)自分たちで法律を提案した。それらは次々と成立していった。
 阪神淡路大震災のとき、弁護士の卵だった私は現地にボランティアに入り、弁護士会館で寝泊まりして法律相談集を下書きした。そのときの経験が役に立った。
(海竜社 『取り立てに怯えた少女が大臣になった』 著:森まさこ)

次回に続きます。