俺は物心ついたときは
父が母と、離婚をすると
言っていると言うことは
気付いていましたよ
離婚はしてませんが

母に父が暴力を振るう
ものだから
小学校でも中学校でも
高校でも気になって

いつも脳裏にありましたよ
母が怪我をしないだろうか
そらまぁ気になってましたよ

あるとき2階の部屋に
いたら かずゆき来てくれ
後頭部をどつきよった
と母が泣き叫んで
いるんですよ

すぐさま降りて行って
止めにはいると
父はおさまるんですよ
俺がいないと
母が大怪我をしないか
人間なら心配になりますよ

俺の考えは大げさですか
母が大怪我するかも
知れないのに

その時は布団をひいて
母は泣き叫んで
横に寝てましたから
なにかとその場は
修羅場で大変でした

その努力の固まりの母を
町の人間は悪いウワサを
半世紀もの間 
立て続けたんやから
俺は許さない

それは人間としての
一線を超えている
そのように感じます

その頃京田辺小学校
京田辺中学校
奈良正強高校と
行ってましたから

繰り返し修羅場は
母が大変やったと思います
まぁ一般的な妻なら
離婚していると思いますが

母の努力と辛抱は
並大抵のものではなく
モンスターやったと
思います

そのころ大阪経済法科大学へ
行きまして4年間
学生時代をやってます

現在の高槻市長の
浜田剛史さんは
後輩になります

農家をやりながら
アルバイトなどもやって
早く一人前になって
なんでも解決できる
人間になりたいと考えて
いましたが

なんせ母が怪我をしないかが
どのようなときも
心配でしたから

アルバイトはコジマ製作所
と言うところで
大学時代行ってまして
現在もそこは京田辺市に
あるんじゃ無いですか

そのように
父の暴力と母の怪我が
気になる学生時代でしたから

一般的な人のように
大学生をやって
車で彼女を乗せて
ドライブしてと
そのような気分には
なれなかったですね

いつも人生とは何なのか
そのようなことを感じて
いましたよ

学生時代の俺から見た
人生感を歌った歌を
20歳のとき作りました
ボブデュランの影響を
受けてましたから

4年間まぁそらそんなことで
大変な難関と向かいあって
一回生のときは父が
直腸がんになりましたから

余命3ヵ月と医者に
告げられ驚きましたが
その後70歳まで父は
いてくれました

卒業して南京都信用金庫に
勤めてまして
破綻倒産してからは
30歳から大阪の
電気の日本橋の
ニノミヤで
仕事をしています

この30代からは
別のさまざまな
難題も対応しながら
米農家もやりながら

さまざまな別の難題
米農家 そしてニノミヤと
3つの物語りを
同時進行させています

農家は必ずしも赤字に
なる時代の中で俺は
ニノミヤで420万年収
持って田畑の
納税猶予とかを
組み合わせて大きく
黒字を記録していますよ

現在はもう66歳なんで
農家もほとんどやめて
サラリーマンもせず
体力的にはゆっくりと
しています

京田辺市上田用水組合は
水路が複雑で
わかりにくいから
俺が各田畑へ
水を送っています

用水のコントロールが
複雑ですから
誰もやれるものがないから
俺がトップとして
6年間やってます

この2年間は
雨が少なく降りませんから
猛暑でいやーまいりました

また兵庫県の斎藤知事と
その周りの人は
亡くなられた
渡瀬県民局長が死んでまで
抗議をしておられる
わけなんやから

人間としてちゃんと
今後は受け答え
やって行って欲しいと
望んでいます

どうか皆さん
俺の人生のように
あなたの人生にも
目まぐるしく

大変なことが続くと思いますが
いやにならないで
くださいね

大変な中を歩んでいると
気持ちが萎縮したり
反対にキレてしまう
こともありますが

人間はなんでこんなに
大変な人生を生きようと
しなければならないのか
と思いますが

逆に生きようとするのは
生きようとできるのは
死んだらもう生きようとは
出来ないわけですから

生きているのなら
勇気を持って
前へ前へ人生出てください
お願いします

母はどんなに修羅場で
あっても
怖いとは言わなかった
もう一度言いますよ
ここが大切なんです

あなたの怖いものは
怖いで良いんですよ
しかしあなたの大切な
ことを邪魔してくるのなら
怖がらないでください

あなたの人生なんです
あなたが怖がって
どないするんですか

他の誰もやってくれませんよ
さぁ怖がらないで
前へ前へ出てください