6月30日に「戦国武将 竹中家と加藤家」なる勉強会に出て以降...

加藤貞泰が築いた黒野城跡を歩いてみたい欲もっこりのジジイ。

そこそこ先約があり 体調も整わずで...ようやく本日、熱中症警戒アラートの中 決行!

関ケ原古戦場記念館のお客さんに対して、犬山城に西軍として布陣していた竹中重門・加藤貞泰...の諸将が なぜ東軍に寝返ったのかの説明に苦慮しとったしね~。

勉強会では

『黒野城と加藤貞泰公研究会』会長の河口さんの熱弁や その紙芝居部会の皆さんの熱演で...ふむふむ...なるほど。

ガキの頃から城の名前は聞いたコトがあったけれど

廃線前の 名鉄揖斐線 谷汲線の分岐駅: 黒野駅(揖斐郡大野町)の黒野と長らく混同しとったがや。

消えたその路線の 尻毛(しっけ)・又丸(またまる)という珍名駅の北東半里に黒野城は築城されとったんやね。(岐阜市中心部からは北西)

地図を見ると 遺構は本丸と その北の多賀神社裏に東西方向に延びる外堀跡ぐらいかなあ...と 思いつつ

いざ 現地検証しよっ...と、意気込み 麦藁帽子をぶった朝8時半。

朝からクマゼミの鳴き声がシュワンシュワンの蝉しぐれ。

本丸 内堀...南東角

関ケ原合戦の前哨戦前、 貞泰は 実弟の平内を家康に予め人質として差し出し...云々。

この記述は 伊予史談会双書に収められた『大洲秘録』とか『北藤録』にあるそうやけど...合戦から140年程も後に書かれた文書には都合良いフィクションがてんこ盛りとちゃうK?...と疑い深いジジイかな。

三成を佞人(ねいじん)石田と書いとるのが怪し過ぎ。

まあ、それでも 平内は 合戦後 池田郡・安八郡・不破郡の一部3千6百石ほどをもらい旗本となったので...さもありなん..かも。

本丸南西角

お堀に定番の アオサギ

本丸 北西角 

堀がクランクしとるY。

北東角

加藤貞泰は15歳の時、 甲斐国(24万石)の国主であった父 光泰が文禄の役の最中に朝鮮で病死。

で、元服したての若造でも治められるようにと 美濃黒野に移封されて4万石。

朝鮮出費で財政厳しき折、築城を始めた貞泰には 躑躅が崎館に似せた土の城しか作れなんだんかなあ。

南西角近くから入ると 往時の桝形虎口へ

史蹟碑の後ろに石垣の石がゴロゴロ。

石垣に囲まれた城門と橋があったという証左らしい。

往時は堀の水面から土塁の上までの高さは 9mやったげな。

土塁上から 虎口方面を振り返る

横矢掛けのクランク土塁

北西櫓跡

本丸内側

御囲い土塁をぐるり歩ける手入れの良さ

南東櫓跡

南を望めば 彼方に養老山地が うっすら。

貞泰は 1610年に米子(6万石)に移封となり

1617年には 伊予 大洲 (6万石)へ移り 明治維新までかの地で13代続いたんやねえ。

国替えに合わせて タンポポ(トウカイタンポポ)もついていった健気さ...てか、したたかさ。 なんか感動的やん!

古地図には 本丸の内堀と 外堀の間に中堀があったけれど、

今は その中堀が埋められて この 多賀神社の前を左右に横切る道に。

農作業中のじさまに聞いて 神社裏の 外堀跡も 見に行ったけど

昭和30年代には清水が流れとったげなに。

この地図では左下の北東角エリアに 外堀と土塁跡を確認して トコトコ。

出隅には 除草剤が撒かれたんかなあ?

鬼門封じの浄土宗 超勝寺。

国替えに伴い 往時の住職も本尊も米子へ引っ越しされたげな。

加藤の名を冠した 加藤光順寺....山門は黒野別院から移築されたモノ。

貞泰が発行した引越免許状が残る 専長寺

城下町の南西部は真宗系の寺町になってましたね。

さて ようやく本題。

一部のマニアしか知らん武将 加藤貞泰ですけど

家康は ぎょうさん手紙送っていたんですね。

当初から家康に内通していた貞泰が中心となって 犬山城加勢衆(約7700人)に 東軍に鞍替えしようぜ...と。

自分の姉が 竹中重門の正室だったので 当然 義兄の重門にも 働きかけ...

通説は間違い...という結論となりました。

つまり 犬山城が無血開城できたのは 加藤貞泰のおかげで

犬山城が現存して国宝になっとるのも 貞やんのおかげやとさ。 

てな訳で、現存最古の国宝城 犬山城で御城印をもらう人は ちゃんと貞やんの名前と蛇の目紋を覚えとかんとね~。

その親父さん光泰は 多芸郡(現 養老郡)橋爪村 生まれという説もあるので 親しみは一入。

 

その犬山城は あの田縣神社とセットにしてブログネタにしたコトがあります。