「満たされる」には、自分と向き合うことが大切です。なぜなら、自分が満たされているかどうかは自分しかわからないからです。

 

僕も含め、漠然とした「満たされなさ」を抱えている人は、自分の中で「満たされている」かどうかを決めることが出来ていない人が多くいます。そのような人は、「満たされる」基準を自分の外に求めます。他者との比較、過去の自分との比較で、優劣、勝ち負けを判断し、客観的視点を持って十分だから、充分なんだと思うのです。

 

これは、小さい頃から、競争や比較の価値観の中で生きてきたことが少なからず影響していると考えられます。

 

ここで大前提としたいのは競争や比較が悪いというわけではない、ということです。

 

大きな視点で捉えるなら、地球上は弱肉強食で、多くの生存競争の結果、僕たち人間が生きています。生き残ることが生存競争における勝利だとしたら、僕たちの存在は競争という価値観からは逃れることは出来ません。

 

さらに、日々生きていくことは、選択の積み重ねです。朝起きて、何を食べるのか、飲むのか。何をするのか、何を着るのか、誰と会うのか、どう過ごすのか。これらの選択の中で、比較することを絶対にしています。

 

競争における宿命は、勝つことを目指すこと。負けるが勝ち、という考え方だとしても、勝ちを目指しています。

 

比較における宿命は、より良い方を選ぶことです。結果的に失敗したと思われる選択をしていたとしても、選択したその時点では最良の選択をしています。その時の自分にとっての最良、全力が選択となります。できる限り早くやらなきゃいけないことをどんどん先延ばしにしてしまっていたとしても、その判断、選択は、その時の自分の全力なのです。

 

 

なので、競争や比較という価値観を否定することは、自分の存在、生きていくことを否定することになるので、矛盾して苦しみます。

 

 

これを大前提としたうえで、競争や比較の価値観によって、僕たちは自分の中に基準を持つことが難しくなり、それでいつまでも「満たされなさ」を抱えることになります

 

自分と向き合い、自分の中に基準を設け、自分軸で生きていくことが「満たされる」ことへの条件となるのです。

 

いつまでも誰かと競争していたり、比較されている限り上には上がいて、負けを味わい、劣等感に苛まれ、自分をダメだと思ってしまいます。それらは向上心や成長に繋がることもありますが、嫉妬や落ち込み、自己否定、自己無能感となり無気力になっていく可能性も高いです。

 

 

このブログのテーマに掲げている「幸福」ですが、これは他者からの評価や自分の外側にある基準で感じるものではなく、自分の中で、自分軸の基準で感じるものです。

 

例えば、誰かに何かをしてあげて喜んでもらったり感謝されることで「幸せ」を感じることがあります。この時に、相手の喜びようや感謝の度合いで「喜び」が増減する場合は、相手基準、他人軸による「幸せ」ですから、競争・比較の価値観の次元です。

 

誰かに何かをすること自体が喜びで、相手の喜びや感謝を自分の行いの見返りとして想定していなければ、自分軸です。行動の出発点が、相手ではなく自分であることが、本質的な「幸福」につながる行いです。

 

ここが難しいところなのです。

 

相手がいて、その相手を喜ばすことは目的だけど、その喜びがの見返りが相手から自分に来ることが目的ではない。

 

どちらも相手を喜ばすのですが、それ自体が自分の喜びであるか、喜んだ相手に何かしてもらうことが喜びであるか。

 

きっと、喜んだ相手の多くは、喜ばせてくれた人に何かしらをするでしょう。でもそれを想定して喜ばせようとすると、見返りが前提ですから、それが得られなかった時に不快になるわけです。不快は、がっかり、ムカつき、損した気分、失望、存在の否定といったものです。

 

こういう愛し方しかできない人は多くいます。それは仕方ないことで、その人がその人なりに全力で生きてきた結果なのですが、ここから抜け出すことが生きていく上で最重要な成長です。この視点を持っているかいないかは、人生を大きく変えます。

 

愛されたいか?

 

愛したいか?

 

愛される人生こそが幸せだと考える人は見返りを求める生き方の次元で全力なのです。

 

 

自分が「満たされている」かは、自分で感じ、気づいていくしかないのです。

 

相手がいる行為だとしても、自分がしたことに対するそれ相応の見返りを求めないことが「満たされる」ことの本質には欠かせません。

 

愛とは与えること、と言われる理由はこういうことです。

 

 

ではここで、2つの視点を足していきます。

 

①見返りを求めない行いで相手を喜ばせようとすることの危険性

 

②どうやって喜びを感じ、気づける心にしていくか

 

次回に続きます。

(つづく)