< いつもより、少し遅くなるかもしれません。夕ご飯のおかずは冷蔵庫に入れてあるから、パパが帰ってきたら、チンして一緒に食べてね。ママより>
食卓用のオレンジ色の光の下で、メモだけが白く浮き出て見えた。結婚以来、夫にこんな嘘をついて出かけるのは初めてだと思ってから、玲子は仕事の打ち合わせで帰りが遅くなるのだと思わせるようなメモにしただけで、嘘はついていないと自己弁護した。それ以上、夫や子どものことを考えないように、バッグの中から文庫本を取り出したが、本はそのまま開かれず、玲子は喫茶店の入り口を見ていた。
三人連れのビジネスマン、五十代の主婦二人、しばらくして黒いジャンパーを着た小柄な男が入ってきた。あの男かもしれない。たぶん、あの男だろう。
玲子は席から立ち上がり、男から見えやすいように通路側に半歩出た。男は玲子を見つけ、ビジネスライクな笑顔でも女馴れした笑顔でもなく、かすかなとまどいの笑顔を見せながら歩いてきた。
革ジャンにジーンズ、デイパックという四十代半ばの男に、玲子もとまどっていた。革ジャンにジーンズが似合う中年男も世の中にはいる。しかし、男は、全く違った。かといって、競馬場にふさわしい革ジャンというわけでもない。寒さを凌ぐためだけに着ているような革ジャン。ジーンズは、ただ一本しかもちあわせず、仕方なくそれを穿き続けているとでもいうようなくたびれ方だった。薄いナイロン製のデイパックはナップサックという古い呼び名のほうがたぶん正しい。
今まで身近にこんな男を見たことがあっただろうかと考えたが、男が近づいてくるまでに、玲子は似た雰囲気の知人を一人も思い浮かべられずにいた。男は真面目そうに見えた。真面目さは気弱さやあきらめにつながっているようにも見え、今日を過ごすためだけの収入でよいと一人で暮らしていれば、こんな佇まいになるのかもしれないと思った。



