ちょっとその前に・・・。

<邦画のシェアが21年ぶりに洋画を上回る>というニュースを、過日、ぽりさん ちで読んだときは、うれしかったな。洋画も大好きなんだけど・・・。
この間、「大奥 」を見たとき、東映は元気だ!と実感して感激していたところだったので、二重にうれしかった。


bushi

武士の一分 公式ページ(


暮れに見たMは「よかった。キムタクもなかなかやるな」と言っていましたが、期待以上でした。


ファーストシーンからよいです。

東北の海坂藩(藤沢周平の故郷、鶴岡市にあった鶴岡藩がモデル)の下級武士の家の中。
新婚夫婦かな、ういういしい若々しい好もしい二人と、老僕がいる。
それで、キムタクの三村新之丞は、ほんとにそういう武士(見たことはないから、いかにもそういうイメージの、というべきか)なんだなぁ。
妻と話していて、方言のイントネーションで「あほだの」と軽口を言うとき、若い武士がどれだけ妻をいとおしく思ってるかがわかり、しかも貧しいながらも武士であり戸主であるという自覚(誇り)をもつ男であることがわかったのだった。「なかなかやるな」以上に、ファーストシーンで感動してる私(--; なお、いつもはとくにキムタクファンというわけではありましねぇ。


老僕(中間・ちゅうげん)の笹野高史も、うまいんだよねぇ。どの登場人物も方言がよかったけど、この人のセリフはとくに方言が効いていた。
きちんと上下の関係ができているのだが(当たり前だけど)、仕えながら保護者のようになる瞬間もあって、新之丞との距離が一定じゃない。セリフや表情からそんなことが見えて、とてもリアリティを感じた。


妻・加世役の檀れいも自然な感じでうまいっす、それに、ほんとにキレーだった。
余談ですが、Mとダチ(どちらも中年おやじ)は、檀れいがもにゃもにゃ(ネタバレになるので言明を避ける)のあと帰宅したとき、カメラがしつこく尻のあたりを追うのが、生唾ごっくんであった、と、超スケベなことを言っておった。どうしようもないサイテ!な奴らである。しかし、きゃつらは、並大抵のことでは女優を誉めないので、それだけ檀れいという女優はなんとも新妻のういういしさと色気を表現していたという証拠のようなものだろう。
あたしはキヨラカにキレーな女優さんだな、と思ったっす。


加世の衣裳についても触れませう。ファーストシーンからしばらくは、生成り地に藍と紅の大きな格子の紬(つむぎ)。紅色はあわくて、この地方で産する紅花紬の色を連想するとともに、やっぱりね、初々しい妻には控えめな紅色がふさわしい。
よそゆき着は、白地に明るい色の小さい柄を織った紬で、一見、小紋(こもん)風。普段とは違う少し改まった感じが白い小紋風の紬によくでていました。
質素だけれど(縮緬や綸子といった絹物は一枚も着せていなかった)きちんとしている、着る人の心映えと美しさが引き立つような衣裳でした。


ところで、再び、キムタク!
目がみえなくなってずいぶんたってから、庭で木刀を振るシーンを見たとき、わたし、えっ???と驚きました。ものすごく運動神経がいいのか? 運動神経がよければ、演じるにあたって練習すればここまでできるのか?と。
剣術の師匠、緒方拳よりも、決闘相手の坂東八十助よりもキムタクのほうがうまい? まさか・・・。役者としての剣の使い方がどうだというんじゃなくって、本当にウマイのではないか、こういうのを「太刀筋がよい」というんじゃないかと思いながらも、自分の目に自信をもてずにいた。
パンフレット見たら、当たってました。エッヘン!☆-( ^-゚)v
かつて剣道をやっていて、殺陣の指導者は二段か三段の腕前ではないかと評している。
何事によらず、上手いものを見るのは気持ちがよいものですが、庭で木刀を振り回すシーンは、もう一度ぜひ見たいシーンです。荒れた気持ちもあって、文字通りめくらめっぽう木刀を振り回すのですが、ビュッという音(この音は後で入れたかもしれない)で己のふがいなさやいらだちを恐いほどの太刀にしている。そんなシーンは演技としての殺陣ではなく、リアル剣道の腕がものをいう場面なのかもしれません。



全て事が済んで、ラストシーン。
これがまた、しみじみとよいのだ。
ファーストシーンと同じ家の中。やっぱり三人がいる。

しかし、新之丞と加世という人や関係に深みが加わって、しかもファーストシーン同様のつつましい明るさがある。
わたくし、まう、はれほれは。

エンドロールが流れる頃、ひとつ置いて左隣に座っていた60代半ばくらいの紳士が、とうとうティッシュで鼻をかみました。
私は、鼻をかむのだけはぐっとガマンいたしておりました。


見終えて、ほぉっと息を吐き、「女冥利に尽きる」映画だな、と思いました。
こういうふうに愛されたら、女は幸せでしょう。以下略w



それにしても(まだ書くか>すません)・・・。
タイトルと原作に関することですが、ネタバレなので白抜きにしました。

武士の一分」というタイトルはとても素敵ですが、妻に不義を強要した上司に対して(盲目になった自分の家禄が据え置かれるように殿に進言してやろうと、上司が妻に嘘を言ったことが原因であったとしても)、決闘という手段にせよ復讐することは、公私の区別をきちんとつけた武士にとって「一分」になりうるんだろうか、というのが疑問でした。
「武士の一分」ではなくて「夫の一分」(タイトルとしてはサイテ)ならわかるけど、と。
それで、藤沢周平『隠し剣 秋風抄』の中の原作にあたる「盲目剣谺返し」(このタイトルより映画タイトルのほうがいいですよね)を読んでみました。
藤沢周平は、三村の行動を「武士の一分」と考えていたのかどうかということです。具体的には「武士の一分」という単語が原作にあるかどうかを知りたかったわけです。予想は「ない」でした。
ところが、決闘シーンにありました。破れたり!ahaha(^o^;)
<だが、狼狽はすぐに静まった。勝つことがすべてではなかった。武士の一分が立てばそれでよい。敵はいずれ仕かけて来るだろう。静止は問わず、そのときが勝負だった。>
う~む、この行動もまた藤沢周平にとって立派な「武士の一分」であるのか。
と、感慨深いものがございました。


 隠し剣秋風抄  この短編集に納められた「盲目剣谺返し」が原作。


<三村新之丞は、立ち上がって居間を出た。目に光を失ってから一年半近く経つ。闇の世界にもだいぶ慣れて来たが、まだ物に触れながらではないと家の中を歩けない。一歩先に、思いがけない陥穽が仕掛けられているような不安が抜けなかった。>
これが冒頭です。原作「盲目剣谺返し」は新之丞がすでにめしいていて、妻に疑いをもつところから始まります。
原作と映画は、大筋は同じですが、冒頭部分がとくに違います。
声をだしてMに読んだところから一部抜粋。(ネタバレなので白抜きです)

<では、盲人として生きてみようかと思ったとき、新之丞は、それまで一縷ののぞみにひかれてとかく外にむかいがちだった心が、深く沈潜して内側にむいたのを感じたのだった。それまで何気なく見過ごして来た妻の寺詣りの陰に男がいる気配は、その沈潜した心が映し出したのである。>
そすると、Mは言いました。「現代小説だな」。その言葉に触発されて、私も思いました。「時代背景を江戸に借りた男の心理小説」なんだなと。 

新之丞の心理描写が際立つ原作、三人の人間関係を描いた映画、それぐらい原作と映画は違いました。

原作の会話文は標準語、この映画は方言を使っている。だから、「あほだの」という私を感動させたw新之丞の口癖、ラストにも有効に使われている言葉も原作にはない。この言葉や冒頭のシーンを作ったということだけをとっても、山田洋次監督は凄いな。



なお、こちらは松竹。松竹は松竹らしいですなぁ。

松竹もとっても元気ですね。うれすぃぃです。

東映「大奥」と松竹「武士の一分」の二本を、先週同じ日に見て、わたくしは幸せでござりました。