<つづき>


大阪冬の陣に話を戻しましょう。


博労淵、野田・福島の戦いで敗れた大坂方は
11月30日、戦力分散を避けるために
残りの砦、柵、水軍の兵を
全て大坂城へ撤退させました。


完全に篭城戦に入ったということですね。


大坂方が篭城したことで
徳川方は徐々に陣を進めて
遂に大坂城を完全包囲しました。


主な軍勢の布陣は下図のような感じです。
現在の地図に置き換えて布陣図を作ってみました。


川や海が埋め立てられていたり
大阪全体が市街地化されているので
当時とはかなり地形が異なります。


例えば長宗我部勢などが布陣した
大坂城南には堀や空堀がありました。



徳川方の部隊のうち
何故ここに?という部隊は
当時は小山や川、湖沼、堀などがあったり
反対に今ある街道、橋が無かったりして
このような布陣になっています。


北は淀川(大川、大和川)、東は平野川
南は長堀川から現在の上町小学校付近、
西は西横堀川(阪神高速1号環状線高架下)
いわゆる大坂城域の境に両軍は対峙しました。


真田丸は長堀川より外側(南)に
位置しています。


主な武将の布陣場所だけピックアップします。


大坂方の五人衆の配置を見ると
まず本編の主役である長宗我部盛親は
大坂城南の八丁目口から谷町口付近に
布陣していたとされています。

真田幸村は城を出て真田丸に入りました。


後藤又兵衛は大坂城西側で
後詰のような位置に配置されました。
恐らく遊撃隊のような働きを期待しての
布陣だと思われます。


毛利勝永は大坂城北西部の
高麗橋付近に布陣しています。

現在の地下鉄天満橋駅の
西側付近だと思われます。


明石全登は南南東の
黒門口に布陣しています。
現在の地下鉄長玉造駅の
北側だと思われます。


大坂方のその他の主要な武将では
大野治長は南西部の松屋町口を、

弟の大野治房は西側の

阪神高速1号環状線の

本町ICの東付近でしょうか?


塙直之は西側の農人橋、
大谷吉治は長宗我部勢と
陣を共にしています。

木村重成や仙石秀範(秀久の子)は
長宗我部勢の東隣に布陣しています。


大坂方の兵数は10万前後と
言われています。


<つづく>