<つづき>


1582年8月6日
元親は讃岐国中西部の次男・香川親和と合流し

香西氏の藤尾城(現・高松市鬼無)を攻めました。


ただし藤尾城は
勝賀城のあった勝賀山の麓にあり
居城として使われた城で
防衛拠点は勝賀城だったという説もあります。


長宗我部勢は36,000人の
兵力だったといわれています。


藤尾城を守っていた香西佳清は

長宗我部勢襲来の12年前、

1570年に疱瘡で失明しながらも

三好氏傘下で香西氏(下香西氏)当主として

活躍していたそうです。


香川信景と共に三好氏に

絶縁状を送りつけて独立を宣言すると

織田信長に臣従を表明しました。


独立後に三好勢の侵攻を受けますが

長宗我部氏が海部城を攻めたことで

三好勢が撤退し、事なきを得ています。



三好氏が長宗我部氏との戦いに

てこずっている隙に力を蓄えたいところでしたが

香西家中で揉め事が生じてしまいました。


揉め事を鎮めるのに手間取り

体勢が整う前に香川氏を降した

長宗我部勢の侵攻を受けました。


香西家臣・植松氏などの活躍で

一時的に長宗我部勢を足止めすることに

成功しましたが、多勢に無勢。


体勢を立て直した長宗我部勢により

城下まで攻め込まれ攻城戦に晒されました。


落城寸前まで追い込まれた香西氏は

かつて長宗我部家臣となった

旧知の香川信景の仲介で降伏しました。



香西氏を降したことで長宗我部勢は

讃岐国の西半国を手中に治め

三好氏の讃岐国の中心拠点である

十河城への足掛かりを得たことになります。




<つづく>