<一昨日のつづき>
海部城を落とした長宗我部氏ですが
海部以北の三好氏の抵抗は激しく
阿波攻めは停滞しました。
吉良親貞が病死したことで
領国内の統治方針を
転換せざるを得なかったことなども
大きく影響していたと思われます。
元親はこの状況を打開すべく
阿波守護・細川真之を支援しました。
細川真之は守護とは名ばかりで
三好氏の台頭により
その権限は完全に抑えこまれていました。
織田信長編で書いた
守護・斯波氏と守護代・織田氏の
立場が逆転していたのと同様に
阿波国でも守護の立場は名目上のものに
成り下がっていたのです。
さらに、三好氏と細川氏の関係は
台頭した戦国大名と抑えこまれた守護
という単純なものではありませんでした。
細川真之の母は小少将という人物で
絶世の美女として伝わっています。
小少将は阿波守護・細川持隆の側室で
細川真之を生みました。
しかし夫であり守護である持隆が
三好長慶の弟・三好実休によって殺害されると
夫を殺した実休の妻となりました。
こう書くと
武力で強引に妻にしたように聞こえますが
実は細川持隆の生前から
実休と小少将は不倫関係にあったようです。
小少将は実休の子を産み
彼らが成長して
三好長治、十河存保となるのです。
つまり細川真之は
三好長治、十河存保の異父兄
ということになります。
兄が弟に抑えこまれて傀儡にされるという
構図だったのですね。
守護という地位、兄という立場、
父を殺した三好氏に抑圧された細川真之は
心中では穏やかではなかったでしょう。
そんな細川真之に長宗我部元親から
支援の手が差し伸べられたのです。
細川真之にしてみれば
権力回復と父の仇討のチャンスでした。
ここぞとばかりに兵を挙げると
1577年に荒田野(現・阿南市)の戦いで
異父弟であり、三好氏当主であった
やるじゃないか細川真之w
長治の戦死は三好氏の力を
大きく弱体化させました。
というか・・・長治の政治力は低く
暴政だったと言われています。
長治の戦死以前から
阿波国は荒廃していたようで
いずれは三好氏は凋落していたことでしょう。
ちなみにもれはこの両者の合戦場である
荒田野という地域に違和感を感じました。
史実上、この場所で三好長治が戦死しているので
違和感を唱えても意味が無いのですが
南過ぎる
と感じたのです。
三好氏の本拠は勝瑞城で
現在の藍住町にあります。
上の地図でいうと徳島市という文字の
北に見切れた位置にあります。
阿波守護である細川真之は
三好氏の目の届く場所に置かれたはずなのに
なぜこんな南の土地で戦ったのか?
という素朴な疑問でした。
調べてみました。
1578年12月に細川真之は
勝瑞城を脱出して那賀郡へ逃亡していました。
この那賀郡は現在の阿南市や那珂町付近であり
荒田野の合戦場の近くでした。
あっさりと疑問が解けてしまいましたw
こうなると次の疑問が生じます^^;
細川真之の勝瑞城脱出と
長宗我部氏からの支援は
どちらが先だったのか?ということです。
長宗我部氏からの打診を受けて
細川真之が脱出したのか、
それとも脱出した細川真之に
長宗我部元親が目をつけたのかという点です。
詳細はわかりませんでしたが
那賀郡へ脱出した細川真之が
近隣の土豪・小笠原氏と手を結んだ上で
海部まで進出していた長宗我部氏に
救援を打診したという説(昔阿波物語)がありました。
阿波守護・細川氏は長宗我部氏と結んで
三好長治を討って阿波国内に
反三好氏の勢力を築き上げた
と書けばそれまでなのですけどねw
参考までに
細川真之が勝瑞城脱出後に
本拠地としたのは那賀郡仁宇山付近にあった
茅ヶ岡城とされています。
詳細な位置はわかりませんでしたが
仁宇という地名から
現在の那珂町役場の西の地域だったと思われます。
上の地図でいうと「荒田野」の
「荒」の字の北西の
国道195号線が大きく南へ曲がっている地域です。
<つづく>
