<つづき>


山中氏は元々、
尼子氏の家老職を務める家柄でしたが
父・満幸が若くして亡くなった為
貧しい生活を送る一家臣に没落しました。


貧しかったため甚次郎は

幼い頃から従軍しており、
8歳の頃に初めて敵を討ち
10歳の頃には弓、馬術、兵法などに没頭し
13歳で敵の首を取ったとされています。


この辺りはちょっと怪しいですね^^;

昔から忠義の人として人気の高い武将ですので

後世(江戸時代)の脚色がそのまま

通説になったのかもしれません。


16歳になると尼子義久に従って
伯耆国尾高城攻めに参戦し
因幡・伯耆の両国で名を知られた
豪傑・菊池音八を一騎打ちで

討ち取ったとされています。


この時の逸話として甚次郎は
「今日から30日の間に武勇の誉れを挙げたい」と
三日月に祈っており
その願いどおりに菊池音八を討ち取りました。
以降、山中鹿介と改名してからも
三日月を信仰したと言われています。


ちょうど尼子晴久が死去し、
義久が家督を相続して
毛利氏との間に石見不干渉の和睦を
結んでいた時期ですね。


甚次郎は次男でしたので
尼子氏重臣・亀井氏の養子になり
亀井甚次郎と名乗りましたが
兄・山中幸高が病弱であったため
兄から譲られる形で山中氏当主を相続し
山中幸盛となりました。


幸盛が正式な名前で
鹿介、鹿之介、鹿助、鹿之助は
通称となります。

いずれも「しかのすけ」と読みます。


以降も山中鹿介と表記します。


山中家の家督を相続した時に譲り受けた兜に

三日月の前飾りと鹿の角の脇立てがついていたため

鹿介を名乗ったという逸話も残っています。


ですが、三日月ではなく半月であったとか

鹿の脇立ては無かったとか

書物によってかなり異なるようで^^;


先の甚次郎の頃に三日月に祈ったという逸話と

三日月の前飾りの時間的相違といい

いずれも後世の脚色という気がしてなりませんが

そこはスルーしておきましょうw


<つづく>