<つづき>


尼子晴久の死を隠して家中の

収拾をはかる義久でしたが

毛利氏は晴久死去を察知し
石見国へと再侵攻を開始しました。


領内が不穏な状態で毛利氏が攻勢に出たため
尼子義久は室町幕府の仲介による
毛利氏との和睦を模索しました。


毛利氏はこの状況を利用して
義久に対して和睦の条件を突きつけました。


その条件というのが石見不干渉でした。


尼子氏が実質的に石見国を放棄すれば
和睦を結んでも良いという条件です。


通常時であれば、このような条件は飲めませんが
足元の出雲国すら揺れ動いていた状況でしたので
義久はこれを了承してしまいました。


この条件を飲むことが
石見国で毛利氏の攻勢に耐えていた
家臣、国人領主らを見捨てることだと
気づいていたのか、いなかったのかは不明ですが
先見の無さを露呈したと言わざるを得ません。


この経緯が尼子義久の器量の狭さや

線の細さといった負の印象を

植えつけているのでしょうね。



毛利氏との和睦が成立したため
国内の安定化を図ると共に
九州の大友氏とも同盟を結んで
毛利氏の軍勢を二極化させようとしました。


しかしながら1562年になると
石見国の要であった本城常光が
毛利方へ寝返りました。

これにより石見国内で反毛利として
粘っていた国人領主らは出雲国内へと逃げ帰り
石見国は完全に毛利氏の支配下となりました。


石見を手に入れた毛利氏は
西出雲の尼子方国人領主を懐柔にかかりました。

尼子十旗と呼ばれた防衛網のうち
赤穴氏や三沢氏など西出雲の国人領主らが
続々と毛利方へと鞍替えし始めると
毛利氏は和睦を破棄して
出雲国へと進軍を開始します。


多くの国人領主が毛利氏へと寝返る中で
頑強に反毛利を貫く国人も存在しました。


これは尼子晴久の中央集権制が
完成しておらず途上であったため
独自勢力を保っていた国人が残っていたためで
義久にとってはある意味、

幸いしたと言えなくもありません。


しかしながら毛利氏の足は止まらず
1563年に白鹿城が陥落。

続いて伯耆国の江美城など
月山富田城の補給線が次々に陥落しました。


残る拠点とも連絡が取れない状況となり
月山富田城は完全に孤立してしまいます。


<つづく>