<つづき>
1571年になると将軍・足利義昭の推挙で
朝廷から右馬頭に叙任され
さらに幕府の相伴衆に任じられました。
この頃、因幡国・鳥取城の山名氏では
家中で内紛が起こっていました。
山名豊国(仮称)は
本家筋で但馬守護である
伯父・山名祐豊の支援を受けて鳥取城に入り
因幡山名氏を相続しました。
鳥取城は辛うじて山名氏が領有していましたが
因幡国は実質・毛利氏の支配下にありました。
1573年に山名豊国(仮称)と
共同戦線を張る尼子勝久、山中鹿介らが
第二次尼子再興軍を興します。
尼子再興軍の行動は迅速で
10日で15の城を奪われ
1574年には東因幡は尼子再興軍の傘下に入りました。
しかし1575年に入ると因幡山名氏の
後ろ盾である但馬山名氏との和睦に成功します。
この背景には畿内で覇を唱える織田氏が
但馬山名氏に圧力をかけるなど
山名氏側の事情が大きく影響していました。
但馬山名氏が毛利氏と和睦したため
鳥取城の山名豊国(仮称)も
毛利氏に降伏します。
山名豊国(仮称)は毛利輝元の偏諱を受けて
山名元豊と改名しました。
※一時的な改名です。
毛利輝元は吉川元春を派遣して
後ろ盾を無くした尼子再興軍を撃退しました。
尼子勝久、山中鹿介らは
織田氏の下へ逃れました。
尼子再興軍は
山陰方面を攻める明智光秀軍を経て
織田信忠の松永攻めにも従軍し
その後、山陽方面軍である
羽柴秀吉軍に組み込まれて
三度目の尼子再興軍を興すことになります。
この尼子再興軍の敗退と山名元豊の降伏で
因幡国も毛利氏の傘下に入りました。
しかし山名元豊はのちに織田氏に内通し
山名豊国と改名します。
先に山名豊国(仮称)と書いていたのは
当時名乗っていた名前が不明だからです^^;
この山名氏・第二次尼子再興軍との攻防で
毛利氏は因幡国まで勢力を伸ばしたのです。
<つづく>