<つづき>
山口近辺を荒らしまわる大内輝弘軍には
九州から呼び戻した吉川元春を向かわせました。
出雲近辺の尼子再興軍には
同じく九州から呼び戻した
出雲国人の米原・三刀屋らを向かわせました。
彼らは出雲に所領を持っており
自城を拠点に戦えますし
自領を守るためならば
尽力してくれると考えたのでしょうね。
一方の尼子勢は出雲、石見、伯耆の
3方面に部隊を分割して
山陰各地を攻めていました。
正確には分割というより
石見で潜伏していた旧尼子家臣が
尼子再興の檄に応じて石見で
伯耆で潜伏していた者は伯耆で
活動したということでしょう。
尼子氏の出雲平定部隊は
月山富田城に迫りました。
月山富田城を守るのは
毛利元就の五男・毛利元秋らでした。
元秋ら月山富田城守備部隊は
篭城して対抗しましたが食料が欠乏し
さながら第二次月山富田城の戦いの
逆パターンに陥りつつありました。
しかし石見国の毛利勢が
尼子の石見奪還部隊を攻めたことで
石見奪還部隊が危険な状態に
あると知った山中鹿介は
富田城攻めを中止して石見へ向かいました。
さすがの猛将・山中鹿介です。
あっという間に石見の毛利軍を撃破した山中勢は
出雲へ戻ると瞬く間に16の拠点を攻略しました。
この頃には軍勢も
6千を越えるほどに増えていました。
なぜこれほど簡単に
尼子再興軍は勢力を拡大できたのか?
元就の意に反して
出雲に先行させた米原、三刀屋らが
尼子勢に寝返ってしまったことが
最大の要因でしょう。
出雲国は短期間で
ほぼ尼子勢の勢力下に入ってしまいます。
尼子再興軍の勢いは増すばかりで
伯耆国の尾高城、八橋城、岩倉城などを次々に攻略し
さらには神西氏を寝返らせるなどして
一気に勢力圏を拡げました。
それでも元就は戦力の二極化を避けたのでしょう。
山口の大内輝弘軍を叩くことに専念しました。
まずは弱い相手を叩くのは
定石とも言えますね。
それが功を奏したのか
大内輝弘に呼応した国人領主を
ことごとく討伐した毛利軍が
大内勢を追い詰めていました。
そもそも大内輝弘は
大友氏が毛利勢を九州から
撤退させるための陽動部隊でしたので
さほどの戦力では
なかったのかもしれませんけど^^;
大内勢は800名ほどに減少しており
大内輝弘は海から豊後国の
大友氏の元へ逃亡しようとしますが
待っているはずの軍船は
既に毛利勢によって焼かれていました。
※異説として大友氏の水軍が大内輝弘を
見殺しにして逃亡したというものもあります。
逃げ惑う大内勢は進退極まり
大内輝弘が自刃したことで
鎮圧されました。
大内輝弘としてはチャンスを得たと
喜び勇んで山口を攻めたのでしょうが
結果を知るもれ達からすれば
どう考えても捨石でしたね^^;
大内再興軍を打ち破った毛利勢は
続いて尼子再興軍討伐へと向かいます。
<つづく>