「もうだめだ。今日はよそう」


本命の実験は残念ながら結果が芳しくなく、新たなfollow-up実験を急遽、実施することになった。

おかげで非常事態に拍車がかかり、もう何が非常なのか判別がつかない状態だ。


おまけに、急な冷え込みに対応することを忘れたせいで、軽い風邪を招いてしまった。

泣きっ面に蜂。


それでも時間は容赦なく過ぎていくわけで。

老体に鞭打って、今日もPCとにらめっこを続ける。


ひと段落ついて、息抜きに覗いたニュースサイト。

凍りついた。

何度も慎重に、その見出しを読み返す。


「ドリカム 吉田の夫が 胚細胞腫瘍で 死去」


ありえない。


記事を読むに従って、次第に広がっていく、焼けるような痛み。

火傷の跡に似たそれが、じわりと内側を占領していく。


こうなったら、もうだめだ。

何も進まないのは目に見えている。

今日の作業は、もうよそう。


傘を手に自転車に跨り、霧雨の中、帰路につく。

iPodにドリカムはないかと探してみる。

15曲残っていた。


実は、中学・高校の頃、僕はドリカムのファンだった。

吉田美和という人のあまりの歌の上手さに心を奪われてしまったのだ。

コンサートにも2回、足を運んでいる。


でも、人間変わるもので、大学の学年が上がるにつれ、彼女の歌声からは次第に遠ざかっていった。

段々と論理を妄信し、心をなおざりにしていった頃だ。

今思うと、傷つくのが怖くて、弱さを隠し通すために採った安直な戦略だったのだと思う。

虚勢という醜い色に染まっていた。


これに連動してか、恋愛の歌には嫌気さえ感じるようになり、当然、その代名詞であるドリカムは再生される機会が激減した。

いつだったか、何かの都合でiTuneに曲を入れ直したときに、ドリカムについては、本当に気に入っている曲だけを残して、後は全て処分したような気がする。

それ以来、iPodの片隅で眠っていた歌たち。


ゆっくりとペダルを漕ぎながら、じっくりと耳を傾ける。


スタートを飾るのは、「何度でも」と「朝がまた来る」。

この2曲は、今でもよく聴くお気に入りの歌だ。

後者の方は、歌詞には明示されていないが、僕は最初に聴いたときから、愛する人が亡くなった時の心情を歌っているのだと勝手に解釈していた。

そのせいか、吉田美和の心境が重なって聴こえてきて、痛かった。


続くは、「4月の雨」。

こんなマイナーな歌を残していたんだ、と少し驚く。

きっと余程のファンでなければ、この曲は知らないだろう。

もう何年も聴いていない。改めて聴くと、この上なく切なくて、やっぱりいい。


「星空が映る海」

ハモリの美しい歌だ。

そういえば、昔、地元で海岸沿いにナイトドライブをしていたときに、ここぞとばかりにこのトラックを選択していた気がする。

その場面が一瞬、蘇った。


「三日月」

幻想的で壮大なバラード。

久々に聴くと、そのクオリティーの高さに改めて驚かされる。

ある歌詞が胸に刺さる。

「永遠のループ 満ちて欠ける運命 残酷なループ 終わりのない運命」


歌が変わるたびに、様々な場面や想いが顔を出す。


これだけ、愛の尊さを説き、歌に込めてきた人だ。

最愛の人を亡くした悲しみは、もう想像を絶してしまう。

コトバでは到底、追いつかない。


なぜ、他でもない彼女に。

どうして、こんなことが起きてしまうのだろうか。

この出来事にどういう意味を与え、受容していけばいいのだろうか。


今はただ、彼女の痛みが和らぐことを、心から、祈るばかりだ。

醜い自分が 顔を出したなら
この手で 頬を打った後
その手を 握ってあげませう
美しい自分が 顔を出したなら
この手で 頭を撫でた後
その手を 離してあげませう
最近、バイトの日は決まって、終業後に近くのハンバーガー屋に立ち寄る。
窓際に陣取り、ビルの谷間を満たす夕日の気配を視界の端で捉えながら、小一時間、コトバの海にスーっと沈潜していくのが、至福のひと時だ。
バイトから実験準備へと切り替えるための、一種の通過儀礼でもある。

先日のセレクトは、ベーコンオムレツバーガーにカプチーノ。
シナモンの余韻を鼻に残しつつ、いつものように愛読書に目を落とす。

BGMが変わった瞬間、活字を追う目がピタリと止まった。
と同時に、余剰次元の口が裂け、心は一瞬でブロードウェイに飛ぶ。
流れてきたのは"Memory"だった。

15歳の夏。
当時、高校1年生だった僕は、幸運にも学校が企画した海外研修旅行に参加でき、ニューヨークとワシントンの地を踏んだ。
初めての海外。
今でも、ニューヨークの目抜き通りを闊歩したときの感動が忘れられない。
摩天楼に押し上げられた青空は遥か遠く、ビルの谷間を流れるタクシーの鮮やかな黄色がこの街の血液に見えた。

夜になると一層、黄色に染まるのが、ブロードウェイ界隈。
そこで、当時話題だったミュージカル"Cats"を鑑賞した。
幻想的な舞台に見入るも、白状すると、英語が聞き取れないのと時差ぼけとで、中盤は意識が飛んでいた。
気づけば終盤に。
年老いた雌猫が、青白い光に包まれながら、舞台の中央でテーマ曲の"Memory"を熱唱し始める。

憂いと慈愛が同居した伸びのある歌声。
自ずと涙腺が感応した。

歌に涙を誘われたのは、その時が初めてだった。
こんな生理現象があるのかと、半ば驚き混じりの感動だった。
本物の芸術はコトバの壁をも凌駕するんだな、と思い知らされた瞬間でもある。

今思えば、あの頃は恐ろしいくらいに純粋だった。

これから何が起こるのだろう、という期待感。
これから何だってできるだろう、という全能感。

世界は際限なく、どこまでも続いていた。
湧出する若さが青ざめた不安を遥か遠くに押し上げ、萌黄色の夢や期待が縦横無尽に行き交っていた。

そんな当時の感覚や世界観が、BGMに沿って、リアルに思い出されていく。
次々に削ぎ落とされていく皮膚。
その厚みに、10年の長さを知る。

音楽は時に、こういう不意打ちを無邪気に仕掛けてくるから、油断できない。

ふと、眼前の交差点に目をやると、世界は刻々と色を失っていた。
夕闇を背にした窓ガラスに、澱で凝り固まった今の自分が、次第に像を結びだす。
世界の色と引き換えに輪郭を与えられても、そこに常緑の心はもう映らない。

言の葉は落ちることに腐心し、
息の根は埋もれていく一方だ。

でも、だからこそ、早春に芽吹くことを喜べるのだろう。
四季をより深く味わえるのなら、常緑性を失うのも、強ち悪いことではない。
世界の果てを知らなかった少年に、今の僕が用意できる答えだ。
 
さて、10年後、僕は一体どんな哲学に辿り着いているのだろうか。
楽しみだ。
その時にまた、"Memory"を紐解いてみよう。

そんな感慨など知る由もなく、BGMは機械的に次の歌へと駒を進める。
終わり、是すなわち、始まり。
今度はあの人が、人知れず時間旅行を始めているかもしれない。

先日、旧友たちと久々に呑んだ。

旧交を温めるという行為は、やっぱり楽しい。


一つ、目に見えて明らかな変化が。

企業に勤めている男子諸君は皆、恰幅がよくなっていた。

訊けば、酒の付き合いもさることながら、ストレスで一人酒が習慣になるのだと、マスコミ系の二人が口を揃えた。

僕も働き出したら、企業戦士仕様の体つきになってしまうのだろうか。


テレビ局で働いている彼は、ADからディレクターに昇格したようで、出退社の時刻を自由に選べるからいいや、と喜んでいた。

ずば抜けて有能な彼の口から「挫折」というコトバが零れたときには、ちょっと驚いた。

それを乗り越えたせいか、どことなく勇敢な顔つきになっていたような気がする。


通信社に勤めている彼は、記者らしく、飲み会の席でも情報収集に余念が無い。

ビリーのダイエット指導法が適当だと指弾していた。

九州支社で焼酎を覚えたらしく、競うように呑み合った。


法律家の卵である二人は、司法試験を終えたばかりで、この秋口に結果が出るとのこと。

吉が出るといいな。


哲学を専攻している切れ者の彼女は、厭世っぷりに磨きがかかり、今は、いかに休学期間を延長するかが喫緊の課題だという。

その天性の知力、社会に役立てようよ。


飲料メーカーの営業マンをやっている彼は、営業太りなのか新婚太りなのか定かではないが、とにかく幸せなオーラで膨らんでいた。


芸能関連の会社に勤めている彼女は、残業のせいで一番遅くに合流し、明日の仕事があるからと一番早くに退場した。

とても忙しそうだ。


相変わらず大学に居残っている僕は、皆から「見た目が変わらないな」と異口同音に評された。

どうやら、一人だけ時間が止まっているらしい。

確かに、服装や髪型は18の頃から変わっていない。

ということは、幼く見えるということか。

四捨五入したら、めでたく三十路だというのに。


決めた、イメチェンしよう。


まずは髪型からだ。

パーマ、モヒカン、アフロ、アシンメトリ。

どれがいいかな。


まあモヒカンやアフロは無いにしても、アシンメトリならちょっと手を出してみたい気がする。

でも、まずは無難にパーマかな。


実は白状すると、大学に入る直前に、大学デビューを夢見てパーマを掛けてみたことがある。

ところが、髪質があまりにストレートすぎて、うまく掛からなかった。

慌てた美容師がすかさず、これでもかとパーマ液の雨を降らせた。

それでもやはり、マイヘアーの方が圧勝してしまい、結局、その美容師に「ごめんなさい」と言わせてしまった。

いきおい青年のピュアなデビュー計画も、あっけなく頓挫してしまった。


軽くトラウマである。


その克服も兼ねて、もう一度、挑戦してみるかな。

あの「事件」から、もうウン年も経つ。

技術も進歩したに違いない。

髪質も老衰したに違いない。

久々に、衝撃的な新書に出会った。


「偽装請負」と呼ばれる違法な雇用形態が、90年代から日本の製造業で蔓延していたらしい。


冒頭では、無法地帯と化した労働現場で雇用不安に押しつぶされ、発作的に命を絶ってしまったある有能な青年のエピソードが、詳細な背景描写とともに語られている。

自殺を図った部屋のホワイトボードには、走り書きが。

そのコトバが胸に突き刺さる。


「無駄な時間を過ごした」


青年には高尚な夢があった。

それを実現するために資金を貯めようと、人材サービス会社の門をたたいた。

ところがその先に待っていたのは、青年の夢を食い物にする企業の利益至上主義だった。

皮肉にも、その企業はコンプライアンス重視を声高に掲げることで有名な世界的メーカーである。


彼の元同僚はこんなコトバを取材記者に投げる。


「ちょっとした行き違いでこんな目に遭っていいのか。上段君(=青年)は使い切られた。使い捨ててくれたなら、拾う神がいたはずなのに。残念でたまらない」


我が子を「使い切られて」しまった母親の無念を想うと、コトバが出ない。


その母親の無念さを代弁し、青年の死に意味を与えようと、全国各地を奔走し精力的な取材を展開した記者たちに、万雷の拍手を贈りたい。

彼らの熱意が行間に滲み出ている。

ジャーナリズムの真髄を見た気がした。
間違いなく、名著として語り継がれていくことだろう。


ふと思った。

極端な例だが、もし、法を犯さなければ生きていけないという状況に陥ったとしたら、どちらを選択すべきなんだろうか。

もし、自分の子供がそんな選択を迫られたとしたら、親はどう導いてあげるのが正しいのだろうか。


答えはすぐには出てこないが、いずれにせよ、いろいろなことを考えさせられる渾身のルポルタージュである。

一人でも多くの人に手にとってもらいたい。


---

「偽装請負 ―格差社会の労働現場」(2007年)

著者:朝日新聞特別報道チーム

評価:★★★★★


偽装請負―格差社会の労働現場/朝日新聞特別報道チーム

Amazon.co.jp