すみません…「偉大なる、中野孝次(3)」の後、時間が経ってしまいました。
中野孝次さんの『自分らしく生きる』(講談社現代新書:1983年刊)の第7章を紹介して来ましたが、第7章の各節は次のとおりです。
○ エリートとしての科学技術者
○ 専門家に支配される社会
○ 素朴な疑問こそ大切
◎ 人間の立場から学び、考える
◎ ある技術者の自己批判
◎ 「自分・対・物」から「我・対・汝」へ
今日は、残っていた終わりの3節( → ◎部分)をまとめて以下に紹介します。
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人間の立場から学び、考える
それには、いろんなことを学ばねばならない。人間の立場から現代文明のあり方に鋭い分析と洞察を行なっている人びとの知識を学び、自分の立場においてそれを考えなければならない。
学ぼうという意志があれば学ぶことができ、このようにして現実をとらえるためにする学習は、自分がいかに生きるか、生きのびられるかという切実な要求に基づいているだけに、学校で教えられるどんな知識にもましてわが血となり肉となるのだ。この章でなんども引用しているロベルト・ユンクという人は、戦後ずっと何十年も原子力の問題を追求し、世界各国のさまざまな人びとと話しあった人だけれども、彼がこう言っている。
「こうした人たちが、原子力やそれに結びついたさまざまな問題に関して、科学的、技術的、経済的、社会的に重要な情報をとりあげ、批判的に考え抜き、そして自分たちの状況に応用する作業にまじめにとり組み、成功しているのを実際に見ることは非常に感動的である。彼らは、学ぶことに関して平均的市民以上の強い動機をもっているので、まったく新しい事柄にも実に驚くべき速さで精通してしまう。だから討論のさいにも、地方の政治家や会社から派遣された者より、数段厳密で、包括的で、そしてなによりも批判的に知識を持っているという場面がみられる。スローガンやきまり文句ではかれらをまるめこむなどできはしないのである」
こういう人びと――妖怪のような巨大存在となってこの「青い惑星」とそこに生きるものたちを脅かしている現代科学にたいし、真剣に考えている人びと――が、いま地球上の各地に、少しずつ、しかし確実にふえつつあるとユンクは言う。
ぼくも自分の貧しい経験からもそのことを実感している。ぼくらはいま、ドイツ語でいうAlternativ(アルタナティーフ)、新しい選択を迫られていると、ぼくは信ずる。
◎ 〈19世紀産業革命以来ずっとつづいて来た、科学技術の進歩すなわち人類の幸福という「硬直した道」を、相変らず歩みつづけるか〉
◎ 〈それとも、現代の巨大技術と巨大組織にたいして、このままでは人類も地球上のすべての生物、自然も破壊され、「青い惑星」は破滅するだろうという認識から、あらためて「進歩」を見直し、自然と調和した人間文化を創りだそうとするか〉
Alternativ ―― 新しい選択とは、前にちょっと紹介した西ドイツの「緑の人びと」たちのモットーでもある。かれらはその二者択一のうち後者の道をえらんだ人たちなのだ。
かれらは、セーターにジーパンという恰好からもわかるように、その姿形においても「つつましい生活」を信条としていることを表現している。かれらは、限りない富とゆたかさの追求が、北側の高度工業社会を破滅にみちびくだけでなく、その富と繁栄がいわゆる第三世界の資源と労働力の収奪の犠牲の上に成り立っていることを認識しており、地球規模での公平を求めている。かれらは、巨大産業や大組織のなかでの人間疎外を知っていて、それにたいし個々の人間がいきいきと自分の全部を出せるような社会を求めている。
人間的なつながりのある小さなグループでの自発的な相互の学習。信頼関係にもとづく徹底した討論。そうやっておたがいの人間関係をさらにふかめ、そういう人びとがいることによって自分の生き方を励まされること。――これが、巨大産業の中の冷たい、管理された生き方にたいする、新しい人間関係だ。
原子力産業に代表されるような最尖端企業は、極度に限定された専門的なその仕事の性質上、人間を人としてではなく人材ロlive-wareとして扱う。それにたいし、「もうこのままではやっていけない」と感じ、人間らしく生きようとする人びとが、いまいろんなところで育ちつつある、とぼくは信じている。
ある技術者の自己批判
核ミサイル製造工場につとめていた優秀な科学技術者のなかからさえ、自分の仕事に疑問をいだき、ついに否(ノー)という答をだして、辞め、核兵器による地球破滅を警告する運動に身を投じた人がいる。ロッキード社で核ミサイルの設計にあたっていたR・C・オルドリッジという人だ。彼の『核先制攻撃症候群』(岩波新書)という本を、君も読んでくれ。
辞める決意をしたとき彼は、同僚の主任設計者にこう語った。
「人間関係の問題じゃ決してないよ、クラーク。ぼくの意識が変わってきているんだ。
人類のことを今までより考えたいんだ」
「何のことだい」
「ただ自分の仕事が信じられなくなったんだ。ぼくは設計やなんかは好きだ。だけど、
ぼくたちは自分たちの作った兵器に首まで漬(つか)ってしまっている。ぼくたちはいつまでも仕事を確保したいための弁明ばかり考えているんじゃないか……」
すると同僚のクラークはこう答えた。
「君の言うとおりかもしれないよ、ボブ。だけど、こんな兵器を実際に使うことはあるまい、といつも自分に言い聞かせてるんだ。これはゲームなんだ」
クラークもまた、自分たちの設計製造しているものが何であるかを知り、そのことで悩んではいるのだ。しかし、彼はそれを「ゲームなんだ」と言いくるめて、仕事をつづけようとする。
彼のその返事、考え方を、オルドリッジは、「これこそは自己欺瞞(じこぎまん)の典型であり、防衛産業に働く者の中にふくれあがる危機の源である」と言いきる。
そして彼は、グラークとちがって事柄を徹底して考えぬき、妻や子供とも相談して、もうこれ以上人間としてこの仕事をやっていけないと決心するにいたった。高給と社会的地位とを犠牲にして、つましい、しかしみずから正しいと信ずる生活をつくりだしたのだ。
彼はその自分の心との会話を、それまでの「自分・対・物」の関係から、「我・対・汝」への転換であったと言っている。これこそ人間であることの勇気といえるのではあるまいか。
「自分・対・物」から「我・対・汝」へ
オルドリッジが『核先制攻撃症候群』を書いたのは、ロッキード社を辞職して五年目だったが、彼は、生活を変える。しかもゆたかなくらしをきりつめるという困難を克服したその五年を省みて、「この歳月は私の中でも、もっとも充実した日々だと思う」と言っている。質素な生活に変えたことによって、彼は「自分・対・物」の生活の時代には発見できなかった「我・対・汝」の、まったく質のちがうゆたかさを体験するようになったのだ。彼は言う。
「まず、われわれの一人ひとりが質素な生活をすることは、食糧や資源の配分を公正にするのに役立つにちがいない。多額のサラリーを消費していたころに私がしていたことは、世界の富の半分でどうやら生きのびている全人類の九四%に向かって、暴力を加えていたことを意味する」
「第二に、必要とする物だけを消費していれば、われわれ自身の貪欲を一掃することができる。欲は富を得るにつれて高まるものだ」
彼の視野がひろがって、世界中の、とくに第三世界の人びとの身にまで及び、さらに質素で精神的な生によって「貧欲」の因果の鎖をたちきるというところまでいっていることがわかる。
(以上、中野孝次『自分らしく生きる』P109~114より)
…ということで、4回に分けて『自分らしく生きる』の第7章を全文、紹介しました。
もう1冊の『生きることと読むこと』(講談社現代新書)は、中野孝次さんの「読書論」とも言うべき内容で、
これもなかなかおもしろいです…、て言うか…わたしも、もっともっと本を読んで勉強しないとなぁ…。
いずれの本も貸し出し可能です。
前のブログでも書きましたが、わたしは中野孝次さんと言えば…
気むずかしいドイツ文学者で、
ついでに『徒然草』を読む、隠遁者であり(朝4時起き)
柴犬にタマシイを抜かれた…おじさん
…ぐらいに思っていなかったので、チェルノブイリ原発事故(1986年)の起きる3年も前に、
中高生ぐらいの若い世代に向けて書かれた書物の中に、これほどはっきりと原発というものの本質や現代社会の本質を示していたということに、いささかショックでした。
いかに…わたしが(本は読んでいながらも)社会のことをよく見ていなかったかということを、この『自分らしく生きる』に改めて教えてもらった気がします。
中野孝次さんは、1925年生まれ、亡くなられたのが2004年(享年79歳)ですから、もう10数年経つのですね…。
『自分らしく生きる』が書かれた1983年当時から、世界の〈核〉をめぐる状況は必ずしもよくはなっていないと思いますが、それでも…時代時代で、〈核〉に反対して来た人たちの思い(遺志)を、次の世代のわたしたちがきちんと受け継いでいきたいと思います。
