最近の…いいえ、これはかなり前からの風潮だと思うのですが、ムズカシイ漢字を読めたり(例 「木乃伊:ミイラ」)、細かい歴史の年号を知っていたりすると、「スゴ~~イ」「あなたって頭いいんですね!」ということになるのは、わたしたち日本人の“国民病”とも呼べる特徴ではないかと思います。
いい例が…テレビのクイズ番組です。
多少のちがいはあるものの…要は
「アタマの中に詰め込んでいる知識の量」と
「答えるスピード」を
競い合うわけです。
たくさん知っていて…
誰よりも速く答えられる…
と「アタマがいい」ということになります。
でもね、わたしたちが生きていく際には「知識の量」とか「答えるスピード」なんかがものを言う場面は、実は少ないのです。
むしろ…
5ケ月間の沈思黙考(のあとの決断)、
3年間の熟慮(のあとの行動)…
なんかがとっても大切ですし、ふつうの人は…まず30分考え続けることも中々むずかしいです。(どうかすると5分も無理です。物思いに5分沈むということではなくて…5分間の沈思黙考…ネ)。
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わたしは、知り合いの人から…人は(orあなたは)
仏教者にこそなるべきであって、
仏教学者になってはいけない
…みたいなことを言われたことがあります。
わたしなりの理解では、
仏教者とは、たとえば日々仏道修行している人、
仏教学者とは、仏教に関する知識だけは豊富な…たとえば
仏教学部のモノ知り教授みたいな人、
「人生に勇気は必要だ」という一文を読んだり、そういうフレーズを暗誦(あんしょう)したりすることはふつうの人ならたやすく出来るでしょう。
でも、「勇気」という言葉を口に出して言う、そういう漢字の読みを言えるということと、…実際に「勇気をもって生きる」とは、〈月とスッポンぽん〉ぐらいにちがうのです。
舐めるとしょっぱい…塩(そのもの)と、紙に書かれた「塩」という文字とが明らかにちがうように、「勇気」という字を書ける人と「勇気」のある人とは、(仏教学者と仏教者ぐらいに)まったくちがうのです。
わたしたちは、どうかすると…その「字(=知識)」のほうに軸足〔重心〕を移してしまって、肝心の…モノそのものと言うか、しょっぱさや勇気といった、実体のほうをいつの間にか忘れがちになっているようにも思います。
だから、わたしには…
仏教者にこそなるべきであって、
仏教学者になってはいけない
という言葉は、とても心に残る警句でもありました。
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澤木興道さんの言葉に、こんなのがあります。
砂糖は黙っていても甘い。「われは甘いぞよ」とも何とも言わぬ。またわれわれが「砂糖」と口で言うても甘くはない。ナメテみれば甘い。―― 言葉ではないんじゃ。
しかし言葉はないかと言えばそうではない。「ちょっっと砂糖もってこい」と言えば砂糖をもってくる。まさか百姓小屋をもってくるはずはない。
仏教は不過言、不可説の法を説くのじゃからむずかしい。つまり言うと無言でものを言う。―― わかった、おぼえたのは仏教ではない。
そうそう…澤木興道さんの「肩書で生きている者は、人生の落伍者である」という言葉、
本の中で見つけました。上の写真、右から2つ目、正確には(上の著作では)「肩書で
生きておる奴は落伍者である」でした。まぁ、詳細はどうでもいいのです、人生において
“落伍者”にならないように気をつけないと…ネ。
◆ 「観自在」の話…(2018年1月29日ブログ)
