Ameba版・天理教よふぼくの集い -1098ページ目

『種』

『難儀不自由苦労艱難の道連れて通りて、種と言う。種無くして実はのろうまい。この理から万事聞き分け。これまで苦労艱難の種、種から積んで来て、それよりどういうものも生えるなれど、中に心の理によって生えん種もあろ。道という、道に我という理どうもならん。我は要らん。………来ん者に無理に来いとは言わん。来る者に無理に来(き)なと言う道やない。又無理にどうせいこうせいとは言わん。来る者にどうせいとは言わん。無理に言わいでも仕舞には成りて来る。』(M30、11、27)

『歩いただけが道』

昨日は、やっと、よろづ病院に紹介状を書いてもらうために診察に行かせていただくことができました。
実は、集談所のお許しをいただいた頃くらいから、様々な変化が起こって来ています。
それは、じっと正座をしていても、ほとんど何も感じなかった足が、痺れたり痛くなったりしてきたのです。それで、もしかしたら、もう一度だけリハビリ入院をさせていただきたいと思い、先月に一度ある病院に去年よろづ病院で書いていただいていた紹介状を持って行ったところ、もう一度もっと詳しいものをもらって来て下さいと言われていたのですが、昨日まで体調不良などでなっかなか行くことができませんでした。

病院のほうは一時半くらいに終わり、詰所へ車を停めさせていただき神殿に参拝させていただきました。

それから、道友社でまたまた新しいご本を見つけさせていただきました。目次を見て気になるところを読ませていただいたところ、今までに聞いたことのない言葉が目に飛び込んできました。

それは…、

人生は割り切れねことが多いのです。割り切れずに“あまり”の出るのは算数だけではありません。
“こんなに一生懸命しているのに、どうして幸せにならぬのか”と、割り切れぬ。
その割り切れぬ“あまり”が、これ以上、運命が悪い方に傾かないための突っ張り棒なのです。
“あまり”を喜ぶ心になるのです。“あまり”が積み重ねられて、心の力となるのです。
善い事をして誉められたら、割り切れて、計算が合うのですが、しかし、いつも割り切れる道ばかりを求めていると、すべてが割れて、切れてしまう道となるのです。
もっと積極的に“あまり”を求めて、割り切れぬことに精を出す道が信心なのです。
善いことをして、ボロクソに叱られてけっこうと喜べる。こんな計算の合わぬ、割り切れぬことはないと思いますが、しかし、割り切れぬ“あまり”の積み重ねを神様が徳としてお返し下さるのです。
『理は見えねど、皆帳面に付けてあるのも同じ事、月々年々余れば返やす、足らねば貰う。平均勘定はちゃんと付く。』(『』:ひろ)
と神様がお教え下されてあります。(「歩いただけが道」松田武信著 養徳社刊)

『“いんねん”の理』

『さあ/\尋ねる事情/\、尋ねる事情はどういう事でなるのであろう。どれだけ話聞かそ。理を分かりて後一つの心聞き分け。内々事情、親々一ついかなる理、一つには道を伝え道を運び、事情“いんねん”の理が分からん。“いんねん”も遁れるも“いんねん”、遁れんも“いんねん”。遁れるや一つ“いんねん”の事情話すれど、“いんねん”というは成らんは“いんねん”という。その事情を聞き分けたなら、又一つ“いんねん”の事情を諭すれど、めん/\の事情分からん、分かる事情がある。さあ/\どれだけどうと思うても、思う通りに成らんが事情という。“いんねん”の事情分からねば“いんねん”の事情寄せる。前生の“いんねん”ならと言うて捨てる事情ある。聞くも見るも“いんねん”の事情がある。又候の“いんねん”がある。これより諭すれどめん/\“いんねん”が分からん。これだけ運ぶ。これだけ尽す中に、“いんねん”遁れそうなものや。速やか言えばどうであろう。尋ねば尋ねる事情聞き分けにゃならん。日々不足事情持たず、十分という心定めてみよ。第
一はこんな事では世上に済まん、神の道にも済まん。“いんねん”の事情分からんにゃ、繰り返さにゃならん。“いんねん”というはどういうものであろう。成らん事情治まらんにゃならん。よう聞き取って、日々に勿体(もったい)ないという理を持たす神の事情十分の理を運んで居る。家業という事情定めて楽しみ一つの事情、何かの事情定めてくれるよう。』(M23、12、18 刻限御話)