個人的な人に宛てた応援メッセージです
今は大越先生の言葉を少しずつ書いていきます




過日、テレビで教育問題を論じ合う特集番組がありました。そこではなはだ心外な発言を耳にしました。

それは、「不登校というのは、結局は環境への不適応でしょう。つまり、子どもたちの適応不全から起きているのではないのですか?」という意味の発言です。
社会的に影響力のある人の発言だけに、正直、驚きを禁じ得ませんでした。
世の中の認識は、いまだにこんなもんです。こうした認識が続く限り、不登校は増え続け、学校教育の現場は悪化の一途をたどるでしょう。


この発言が、いかに理不尽であるかを物語る実例をあげましょう。
それは、東京でも有数の名門女子高で、勉強でもスポーツでも能力を認められていた16歳の女の子のケースです。

彼女はいじめにあったわけでも勉強が嫌になったわけでもないのに、高校1年で不登校になってしまいました。
その理由が重要です。


入学早々、彼女はその高校の伝統ある運動クラブのレギュラー選手に選ばれました。全国大会の上位常連校だったので、練習もきつかったのですが、それ以上に彼女を苦しめたのは、レギュラーと補欠、その他大勢の部員との間で、先生たちの扱いがあまりにも差別的だったということです。

スポーツだから勝負にこだわるのは当然、したがって力のある部員が大事にされるのも当然です。しかし、ごく日常の生活、食事をしたり風呂にはいったり、アイスクリームをなめながら談笑する、同世代の女の子の付き合いが、ここではなんと貴族と召使のように違っていたというのです。正選手と先生にはアイスクリームが出るのに、道具を運んだり球を拾ったりという裏方の部員たちは水を飲んでいるだけでした。

彼女はこの扱いが耐えられず、何度も先生方に抗議しました。しかし取り合ってくれないばかりか、授業や生活指導のほかの分野まで、能力の差によって生徒を差別する姿勢がありありと見えてきてしまったというのです。能力の差はあって当然でも、それで先生や友人との付き合いに差別が生じるのを、この女の子はどうしても許すことができず、ついに学校へ行かなくなってしまったのです。

彼女の父親は、大手の証券会社で高い地位にいるエリートビジネスマンですが、この話を聞いて激怒しました。学校に対してではなく彼女に対してです。
「そんなことで、この競争社会が生きていけるのか。力のある者に力のない者がかしずくのは当たり前だ。いいかげんに子供じみた正義感は引っ込めろ!」というわけです。

しかし、この子は負けてはいませんでした。
「もしお父さんがそんな考え方で仕事をしているとしたら、どんなに出世しようと私は尊敬しない。お父さんみたいに出世しなくても、お父さんよりも長い間、こつこつ働いて会社を支えてくれている人たちを私は知っている。出世が悪いんじゃない。幹部の役割や責任の大きさもわかるつもり。だけど、下積みの人たちが上の人にかしずくのが当たり前なんて言葉を許すぐらいなら、死んだほうがまし」

この議論は何回も果てしなく続いたと言います。そしてなんとこの父親が暴力にまで及びそうな娘との悪夢の葛藤を経て、完全に娘の軍門に降ったのです。
軍門などというと物騒に聞こえますが、「娘の言っていることのほうが正しい、わが子ながらあっぱれで、自分の人生観まで変えてくれた」と、最後には兜を脱いだのです。
そして、この高校を彼女が大変なエネルギーを使ってまで適応する価値がある場所でないと判断し、中退を認めました。

娘と一緒に私のところに来たこのお父さんは、「これからも自分は企業戦士を続けるし、この仕事に誇りも意義も感じている。しかし、これから自分の仕事の仕方は明らかに変わるだろう。その点、娘にはむしろ教えられた。自分を支えてくれている多くの人々に対する、いっそうの感謝や思いやりを思い出させてくれた娘に、今は感謝している」と言っていました。

こうした例から言えることは、適応力とは、適応するに値する場で発揮されなければ何の意味もないと言うことです。むしろ、適応することで歪められるような場では、適応を拒否する能力が発揮されるのが、生物界の原則として正しいと言えるでしょう。
私自身、世の中の一員として、今の社会は、本当に子どもたちが必死になって適応するだけの価値があるかどうか自問しているのです。

「子どもの通っている学校が、適応に値する場所かどうか考えてみましょう」

         「自然に勉強する気になる子の育て方」P56~59より