具体の心配、抽象の心配

テーマ:

具体の心配と抽象の心配のまとめ








元素の概要を書くと、



死と生が逆になって

双子の裏返りがなくなってしまう事

【ウラン】


死と生の境目がなくなって

双子の条件が成り立たなくなってしまう事

【ケイ素】



この2つの心配に関して、



母であるカムの落ちる悲しみの性質(死)をアマが間違えてしまい、

【水素】


赤ちゃんであるアマの最初の意志の可愛い性質(生)が変わってしまう事を

【ヘリウム】



カムは心配していた。


ここまでがカムの心配の前提の「具体」の心配。



そこから、更に、


カムの心配は複雑だが同時にアマは感じれるだろうか

【炭素】


カムの心配は繰り返し確認できるまで続くけど大丈夫だろうか

【酸素】


そして、心配と確認の記憶はアマカム一緒に感じる事は出来ないし共有できない事をアマは感じれてるだろうか

【窒素】



ここまでがカムの「抽象」の心配。

そしてもう1度、水素とヘリウムに戻り、



全ての元素を確認できたアマとカムが、

身体で出会い、元は同じ姿であった事を、「声」と「境目」で記憶を確かめ合う。でも、それは会って実際に話さなければわからないことを知っているだろうか

【白金】



最後は「超具体」だけど、

外カムは内アマの声が聴こえてて、

外アマは内カムの声が聴こえてる状態。




猫しっぽ猫からだ猫からだ猫からだ猫からだ猫からだ猫あたま



アマとカムの双子の個体性を決めてる具体の心配が始めにある。

その後に双子の記憶をどう感じているかの抽象の心配がある。

だから、具体の心配が元になってない場合は、双子の記憶自体が存在しないので、抽象の心配はあまり意味がないのと、また具体が疎かになると、抽象は余剰しやすいという注意点がある。




例えば、

炭素や酸素があまり欠けてないが、水素やヘリウムが余剰がしてる場合。

これは、記憶が完全ではなかったら「悲しい」じゃなく、完全さと複雑さはなくならないが、それが完全じゃないと「悔しい」という動機になってしまったりする。

水素が余剰すると、何についても悲しみがなくなり、ヘリウムが余剰すると、落ちる縦の悲しみではなく別の意味の感情になってしまう。



水素が欠けてると、炭素の複雑さが母カムとしての悲しみの複雑さだとはわからないし、ヘリウムが欠けてると、酸素の繰り返しが赤ちゃんアマに対しての複数の心配だとはわからないし、抽象の心配だけでは成り立たないようになってる。



でも、具体の心配をアマが感じれていても、抽象の心配の押し上げに欠けたり、余剰していると、実際に「どれも・ずっと・どんな時も、死んでない」とは確認できないから、「その瞬間瞬間」だけの関係に双子がなってしまい、逆に具体において、記憶の全体が再現できず、双子の具体がどこまで、どれほど大切かがわからなくなる。



最初アマと最初カムが出会った時、最初に家族・人間関係などの余剰の心配が先に出てきたのは、盤上では抽象と具体が逆五芒星によって逆になっているのと、五角形は双子だけの記憶なのに、抽象の心配の場所に双子以外の家族構成が配置されている為に、先に窒素、酸素、炭素の抽象の余剰を確認しなければ、水素とヘリウムが確認しずらくなっていたのもこれと関係がある。



⚪︎H、Heが欠けて余剰

個体性がなくなり、自我が出来、性が出来る


⚪︎C、Oが欠けて余剰

父と母の概念が出来る


⚪︎Nが欠けて余剰

それらが常識、道徳、倫理になる



もし、五角形自体がアマの望んでなかった心配だとすると、カムが勝手に心配していただけのアマにとっては迷惑な心配だった、となる可能性ともなり、

その場合は、カムの心配は全部なくなって、アマも双子の条件を必要としていなかったり、赤ちゃんの性質ではなくなっていたり、炭素酸素窒素などの余剰の心配は意味がなくなってしまうということ。



論理や言葉や物語は、具体が欠けて、余剰した時に発生したから擬抽象だけど、余剰を基盤としてる盤上では、論理や言葉(擬抽象)で作られた虚像(擬具体)を区別する為に、逆に言葉や論理が必要になってくる。


でも、本来は、「欠け」がなければ「余剰」も発生しなくて、その場合はアマは欠けてないので論理性は不必要。



地球自体が具体から現れた抽象で、花の五角形は地球の五角形の更に抽象化。

自然は、双子のかつての具体の心配と具体の押し上げの出来事が、所々に抽象的な記憶として表れていて、

「余剰」はアマが自分の意志で区別するのかどうか、という事で鏡に映って再現されているが、

自然界の記憶自体には、言葉や論理や物語が存在しないのは、「欠け」がないというのはどういう感覚か、という記憶を表している。





どうしても具体の心配が元にないと、炭素と酸素の心配は抽象の心配なので、例える事が難しいのだけど、余剰の方ではあるが、漫画のデスノートには酸素や炭素の事がわかる場面が結構あると思う。


有名な漫画だけど、monsterと同じく個人的にはすごい漫画だと思って何回も読んだ。

漫画考察的なところがかなり多くなったが、わかりやすいと思う。




まずカム側が炭素の心配が欠けて余剰した場合だけど、カム本来の複雑な心配の感じ方が消えて、カムの方がアマや世界を一本のフォークとしてシンプルにしたい、単純に扱いたい自我と願望が出てくる。


漫画でライトは「優しい人だけの世界にする」と言って、学問やデスノートを武器に、自分の思ったこうでなきゃいけない思想で、自分の思い通りに世界をくくっていく。

色んな意志の人がいたとしても、一つの思想で、世界とシステムが動いてるように感じてきて、一見、手の込んだ複雑なやり方に見えるが、単純な感じ方を複雑に見せようとする為に、トリック的な方法で実行していく、というのがカム側が炭素の心配が欠けて余剰した例としてわかりやすいと思う。


酸素の心配が欠けて余剰した場合は、カム本来の周到に疑い深く繰り返す心配の感じ方が消えて、自分のシステムの中で繰り返し駒を動かす感覚となってしまうので、相手の警戒を解いて操りたい自我と願望が出てくるから、プライドから表れる機械的冷酷さが出てくる。



ライトの炭素余剰+酸素余剰で、選ばれた秀才的イメージとなって、「自分にしか出来ない、全てを正す」という結論に辿り着き、思想的な一神教的支配に陥ってくるパターンだと思う。でも、ノートの所有権を放棄して「正義感の強い秀才息子」お面になっている時は多神教的パターン。その時はミサや高田が裁きの女神になり前面に出てくる。



余剰したライトとは逆に、エルの方は炭素や酸素が欠けていないような人物として描かれてるように思う。


カム側が炭素・酸素の心配が欠けてない場合、アマの心配が、盤上でも他の分野や性質にも出てきて、細かく、デリケートで、疑い深く完璧に何もかもをやる性質が感じられると思う。

冷徹さや冷静さが感じられるが、やっぱり心配の感覚だからどこか悲しげな感覚があって(水素の悲しみとは違う悲しみ)、でも冷酷さではなく、周りからはどんより暗く、いつ寝てるかわからないイメージがあるが、本人は人目も気にしないし、そうは感じてない、という雰囲気があると思う。


多分、漫画では、その辺りのライトの選ばれた秀才的イメージに対して、エルの変人天才的イメージが意識して描かれてるのだろうけど、これは、炭素、酸素を余剰した元父(人間の賛同を巻き込んで世界を創造する)と、炭素、酸素が欠けてない最初カム(誰の賛同もなく一人で黙々と心配をしている)の関係にも近い。



あと、上に書いた多神教選抜パターンとしての陽子②の話だけど、父お面のライトを挟んでミサと高田が嫉妬し合う場面がある。


炭素が余剰したミサと、酸素が余剰した高田と、炭素と酸素両方余剰して2人を取り入れるライトという感じ。父は2人の娘の嫉妬(思想の取り合い)を見る事で、自分の思想が正しい事を確認出来て嬉しい。


炭素と酸素が余剰した思想を受け取ってくれるスプーンとしての受け皿が必要となり、それにふさわしい娘はどちらかという事で、父の考え方をどちらが早く理解し、のちに息子にし、母になれるかっていうのが陽子②で発生する嫉妬の典型例。


漫画にはそういう場面は無いが、もし、両方の母が手を組みあい(直交トーラス)、共にライトを共通の息子にした場合に、ライトは名前の通り「光子」となると思う。両方の息子になる場合は、ヘリウムを余剰させて男でありながら娘っぽさを手に入れ美しく見せる事で息子の立場を獲得する。



ライトの思惑通りにはなかなかうまくいかず、高田は、外装(娘っぽさ)→内装(母っぽさ)として、良妻賢母的?にライトの思想を理解するが、ミサはどちらかというと、内装(母っぽさ)→外装(娘っぽさ、こっちが強調されてる)アマ的にライトの力になろうとする為、嫉妬だけでは繋がらず、高田とミサもぶつかる。


ライト自身が外装的なので、高田とはぶつからないが、ミサには「女で初めて殴りたい」とライトが言ってた場面があるように、ルールを決めたい父であるライトからすると、ミサも自分のルールで迫ってくる母的要素が強い為に、炭素余剰の父と炭素余剰の母はどちらもルールを決めたいが、相容れない場合が多い。



以上、炭素酸素&漫画考察。










カムにとって、アマの心の死の可能性の心配は複雑に同時に多数、幾度となく繰り返し発生するが、



炭素と酸素の欠けのカムの心配は、


《炭素》

一気に同時に出てくる複雑な心配を複雑なままアマは本当に感じてれているのだろうか?


《酸素》

毎時出て来る心配をアマは同じものとして感じず、違うものとして区別出来るだろうか?


というカムの心配があった事に由来する。



全てアマの死の可能性なのだから、アマが適当に一つの方法で定型的に処理しないか、幾度となく起こる心配を面倒くさがらないか、という心配になってくる。



例えば、人体においても、たくさんの臓器があり、指は別々に動き、同時に1本しか動かせなかったりはしないのと、まとまっても動かないし、

ある臓器が動いていると同時に別の臓器も動いて別の働きをしているが、一つの人体の中で、複数の働きを同時にかつ違いを感じながら、繰り返し毎度動いてるのはこの炭素、酸素の心配と押し上げの感覚から。


アマ側の呼吸は、原子ではなく、元素として、炭素での同時に起きるカムの複数の心配と、酸素は毎時繰り返すカムの心配を感じようとして発生した運動。



だから、もしアマが炭素・酸素が欠けて余剰すると、内臓はたくさんあっても一つの処理方法でシンプルにまとまってる方がわかりやすく楽だ、という事になってしまうし、呼吸するのは毎回繰り返すのはめんどくさいという感覚と意志だったという事になってしまう。




例えば、もう少しわかりやすい例にすると、

アマが走って壁にぶつかる心配がカムにあるとする。


⚪︎ぶつかった時に誰かのせいにするかもしれない

⚪︎わざとぶつかったふりをしてカムの気をひくかもしれない

⚪︎ぶつかった時にこけてこのままこけておいた方が私は楽だと感じてるかもしれない


最低でも元素の92個の心配がカムには同時に出てくる。アマがそんな時に、



丸レッド炭素の場合


例えば、


「うん、心配だよね。こう心配で思ってるよね。」


というような言葉での理解や定型文でアマが心配を処理してしまった場合。


カムの心配が簡単なものだと思う(=アマ自身が生命としての同時的感じ方がなくなる)のが炭素。


カムの心配はデータ圧縮することができないのに、これは複数の心配の感覚を一つの言葉でアマはデータ圧縮できると思い込んで、アマの方が一つしかない単純な感じ方になり、アマ側での炭素の押し上げの欠けが発生している場合となる。



雨の冷たさは同時にたくさん落ちてくるし、体で感じるのであって、目では見えないのに、雨の温度データを見て、雨の冷たさを「雨は冷たい」と雨が一粒かのように一言にデータ圧縮してしまうようなもので、ここから言葉が万能であるかのように思ってしまう事が炭素の余剰。だから、炭素の余剰は、言葉の起源でもある。




丸レッド酸素の場合


例えば、


「ぶつかってないし痛くないよ。大丈夫だから。その心配は昨日も聞いたし、今日も大丈夫。」


というような昨日の心配と今日の心配をアマが同じ感覚で心配を処理してしまった場合。


カムの心配がめんどくさくなる(=アマ自身が生命としての警戒感がなくなる)のが酸素。


カムの心配は、毎度繰り返されて、同じ心配を言っていても、同じものとしては処理できないのに、これは繰り返される心配の感覚を、アマは同じ名前のラベルでデータ処理できると思い込んで、アマの方が怠惰的な感じ方になり、アマ側での酸素の押し上げの欠けが発生している場合となる。


昨日の雨と今日の雨は違うのに、「雨」というファイル名が同じだからと、同じ心配・感覚だと思ってしまい、同じ雨だから、同じ傘をさせば、心配は大丈夫、予防して避けれると感じるようなもので、ここから、自動化が万能であるかのように思ってしまうのが酸素の余剰。だから、酸素の余剰は感覚の機械化(習慣化)の起源でもある。




男の女っぽさ

カム側での水素の欠けてなさとヘリウムの余剰の競合の話。


カム側の水素の心配が欠けてない場合「落ちるような悲しみ」が感じられるけど、

そのカムに対して、アマが息子を投影したい(酸素の押し上げが欠けて余剰)と感じてる場合があるとする。


その時、水素が欠けてないカムの母の性質は感じられなくなってしまって、「父になれなくて安定しない息子」としてみたくなる。

例えば、ギターを振り回してるコバーンを観ると、何か自分の思い通りにならない事があってそのイラつきを発散してるように思えてしまう(水素が欠けてないことが、ヘリウムの余剰にみえる)。

その結果、父から欲しいものがもらえずイラついている娘っぽさを持つ外装アマと区別がつかなくなる。だから、水素の悲しみが安定しない感情の浮き、沈みかと思えてきて「女っぽさ、女々しさ」として感じてくる。これはアマ側が余剰してしまってる場合。

実際、水素の心配があるカム自身もそう扱われる場合も多くなると思う。


でも、水素が欠けてないカム自身は、「居る」と見られ続けてる事が自分でおかしいと感じてるだけで、思い通りにならないイラつきではなく、誰かに理解されたい気持ちも、父や息子という概念も持ってないので男にも女にもモテたいという感覚をもってないというのが実際だと思う。


それと間違いやすいのが、

カム側のヘリウムの心配が欠けて余剰した場合。

カムのヘリウムが欠けて余剰すると、アマが「かわいい」ではなく、アマは「美しい」と思い、その美しさで父に贔屓されてる存在に思えくるため、カムがアマ側の立場になりたくなる。


こっちの場合は、ヘリウムが余剰したアマ側の娘っぽさを、カムも余剰したいと思ってる為に、ヘリウムを余剰したカムは女っぽさを欲しくなり、娘っぽい女っぽさを持てば、女の中に溶け込めて、炭素を余剰した父の世界の中で優雅になにかを貰え続けられると感じ、ホスト的になる。


水素と炭素を余剰したアマ(自分がルールを作る側だと思っている)からは、ヘリウムを余剰したカムの事は、売れっ子にしてあげる為に守ってあげなくてはと思えたり、可愛く思えたり、かっこよく感じてくるなどがあると思う。


じゃあ、ヘリウムを余剰したカムからは、水素が欠けてないカムのことをどう感じるかというと、自分より美しく、女っぽい存在だと感じ、嫉妬感が出てくる(まさか母の性質だとはわからない)。

水素の心配があるのは男ではないのはわかるのだが、女でもないから、男に対しての競争心ではなく、女としての嫉妬という形で発生する。



「カム側の欠けのない透明さ」と「アマ側を美しさだとおもってしまう余剰」の取り違えから起こる競合の話。














ウランとケイ素の心配の特徴❹の続き



シャッフルついての話の続きだけど、個体性と全体性の話も書いておくとわかりやすいのでまとめておこうと思う。


⚪︎双子の関係(ウラン)

⚪︎双子の条件(ケイ素)


の発生段階で、大半の双子組(どれだけかはわからない)は、最初の双子組の記憶から離れたので、図の左側(🌻)の個体性と全体性というのは地球上ではなくなって、右側(🌼)の個体性と全体性が基準となっている事は以前書いた通り。

それが、家族構成から全ての人がスタートするという群の構成を基盤としているという事。


だから、盤上では五角形の一部の元素が欠けていない感覚のカムやアマがいたとしても、他の元素が余剰していたり、🌼組の全体性のシステムを採用していることから、個体としても🌻というよりも🌼の性質として動く基盤となってる。


🌻組で右側の全体性のシステムを選んだ最初のアマカムが、🌻の性質をやめた元母と元息。

有性の双子(普通の男女だが、元は双子でもあったという特例となった)として、元父との三角構成を作ることにより、2人は現在の経済システムの基盤ともなっていて、🌻アマカムというと元母と元息が起源のイメージとなっている(多分、これが日本の母系イメージともつながっていると思う)から、この時点で既にカムは母、アマは赤ちゃん側だという左側の記憶のことは消されていたということ。


だから、実際は、最初の双子組しか双子組と双子組の違いを表す左側の全体性のことは他の🌻組からも🌼組全体からもわからない記憶となっていて、十字架以前に存在していた左側の全体性は、なぜ十字架が存在しないのに双子組と双子組の違いがある(右側の全体性は十字架が前提の差分で差を作り個体としている)のか、


例えば、簡単にいうと、

一人一人声が違うこと。

同じ元素の心配であってもやっぱり一人一人少しずつ性質が違うこと。

誰一人として同じ人はいないこと。


これは、同じ双子組は一つとしてなく、この世界には集合概念自体が存在しないように、でも、双子組と双子組の違いも決定する個体性(双子組)としての違いはありながらも、例えば、双子の条件や裏返り、人間の身体にも共通的に指は5本を基盤にしているとか、内臓全般は共通してること、全体として共通して変わらないところ(共通して欠けがない)がある、という左側の全体性の記憶から現れていて、それがウランとケイ素の心配と押し上げの記憶でもあるのだけども、双子組と双子組が間違わないような違いが同時に全体性でもあるような感じになってる。



一般的な全体性と部分性という概念は右側から現れてるが、まずはシステムという全体があり、細分化して個体は部分となっている考え方になっていると思う(矛盾して成り立たなくなっている個体から全体性をみてしまった時に現れるのが素粒子)。

コンピュータネットワークも人間関係の相似形の射影なので、親サーバと子クライアントなどの関係になって表れてるからわかりやすいかもしれない。



でも、左側の全体性というのは、双子組と双子組の関係でも親や子のような上下、対等を争う左右の対の関係を持っておらず、最初から個体性から始まってて、個体性しかないことが全体性にもなってて、実際に、人と人が会う時に、たとえ名前がなくても、システムがなくても、その相違の記憶をどこかで使い、人は人と自分を区別してるし、体の中の免疫も自己と非自己を区別できる感覚などがある。



まだ私もその個体 → 全体という感覚がどうなってるのかうまく説明を書けないけど、これが最初アマカムにとっては、十字架は全く必要がなくて単なる余剰と感じている感覚の根拠となってるのだと思う。


それと、最近思ったのが、

🌻カムは🌻カム同士の約束、🌻アマは🌻アマ同士の約束として、


・カム側全体は、必ず意志を持たないが、自分から動き、双子の条件を感じてる事

 ➡︎ 一神教をうまない


・アマ側全体は、必ず意志を持つが、自己表現や双子の決定権はもたない事

 ➡︎ 多神教をうまない


しかし、それも「各双子組の意志による」というような、最初アマカムが他のアマカム全体の相違をみて考えていた、一瞬で同意できるウランとケイ素の約束の全体性のようなものが右側の全体性が現れる前に存在していたように思う。


元母は「意志をもたないが、自己表現したくて、双子の決定権を持つ」という事で🌻組の全体性と反発し、元息子は「僕は、私はという意志(自我となっている)をもつが、自分から動かず、双子の条件を感じてなかった」ということで、双子組のそれぞれの相違(全体性)を崩す危険性をもってたので、🌻組から最初アマに追い出されたという感じになったのだと思う。



ウランとケイ素の心配の特徴❻に続く


ウランとケイ素の心配の特徴❸の続き









ウランとケイ素の心配と押し上げが欠けて、余剰として発生した世界が「シャッフル」の世界であるけど、その成り立ちについてtwitterに書いてきた絵と一緒にまとめてみたいと思う。




「世界に2人だけみたいだった」



これはmonsterでヨハンがシューバルトに言った場面。


monsterのように誰かの母から産まれた2卵生双生児の双子ではなくて、母や父や息子や娘の関係が発明される以前には、死と生の記憶の双子がまずあって、その一番最初の双子の記憶が「最初の花火」。


だから、自然界はその双子の2人だけの記憶が現象したものだが、2人だけの双子という関係を憎んでウランとケイ素が余剰した双子組もやっぱりたくさんあった。



双子の裏返りはずっと変わらないから、

「裏返った自分って、自分の嫌なところがそのまま相手に出てしまうし、ずっとそんな同じ相手は嫌だ」

といって裏返りを外す事が自由だと思った双子組もあっただろうし、


最初の双子組の条件が厳しくて、

「双子は会うのも大変だし、会えても条件があるから気楽に話せないなんて嫌だ」

といって、条件を理不尽なルールのように思った双子組もあったと思う。



そんな風に、ほとんどの双子組が最初の双子組の自然界から離れた後、反重力の世界(盤上)で、双子以外の相手をくじ引きと相性で選ぶようにシャッフルし、父・母・息・娘の関係が発明された【神の発明と人間の起源】。




シャッフルの組み合わせを考えていく為には、最低カップルが対で2組必要だった(既に双子の裏返りはなくなっている男女として)から、そこから体も双子の原種の身体とは違って、それぞれが望む通りに男と女の有性がスタートした。


それが、現代でも続いてて、親と子、自分と他人、一緒に居たら楽しく気楽に話せる関係としての恋愛関係など、誰とでもお互いが了承しさえすれば別の組のアマとカムも付き合えるような世界になった。



最初にシャッフルを望み、双子の居なかった元父のように、裏表で男女を引っ付けて、新しい世界を作ってやると思った人も居た。でも、元父が問題だったのは、シャッフルしたい意志の双子はいいが、それをまるで常識かのように全体にまで適用しようとした事だった。


最初アマは、双子の起源でもあるし、双子をずっと望んだ人だから、もちろんシャッフルの意志はなかった。ここから自然界とシャッフルを遂行していく人間世界は対立する事になる。


元父にとっては既存の双子の事より、新しい双子(片割れ)を作る力を証明するのがアイデンティティだった。でも、最初の双子は、元父の主催する世界や合コン会は興味がなかった。だから、一途に双子の記憶を守ってる最初アマが憎かった。

最初アマが自分でも気づかないように、うまくシャッフルの世界に含めて、最初カムの事を忘れさせたくて、余剰の知覚が現れた事が、現在の人間の地球の見方そのものにもなってるという事。


0人称以外の記憶を持つ事はない最初アマにとっては、「双子以外とくっついたり、好きになる感情自体もってないし、彼氏や彼女や結婚なんかはありえない」と思ってきたように、シャッフル発生以前の双子記憶からすると、母親・父親の常識、他の娘・息子達の常識は双子の記憶以後に人間が勝手に作った都合だから、ありえないと感じていた。

盤上で最初アマが現れ、他人の虚像は当てはまらず(肉体的には親と子であっても、組は違うし、双子記憶は他人)、親を親と認識しなかった事から起こったのが火と光の対立。





今の世界でなら、シャッフルはお見合いや合コンの仕組みでもあるから、その仕組みを作ったり、プロデューサーをする人が居たとしたら、ウランの心配や押し上げが欠けて余剰した名残り。

プロデューサーには、ボナパルタ的な父&平和の神様的な母があり、その元に集まった全ての男女にとってのプロデューサー的父と母との関係は、最初のシャッフル機構である「一神教」の原型(陽子①/中性子②)。




これと同じ相似形の家庭でいうと、誰もが盤上では息子か娘という立場で産まれてくるから、1人称から始まり、自分は個人として、子の自分をプロデュースしてくれる両親を最初の社会として学び、その親の虚像を信仰し、自分も彼氏・彼女(両親に似てるか、反発してるか)を作り、結婚や出産という概念に参加していく。その過程そのものが、子が信仰する親「一神教プロセス」となってる。



最初に双子以外の関係を求め、自分がシャッフルの男女関係の中に混ざりながらも、どんどんシャッフルを促そうとする人も居た。

今の世界でいうと、合コンに人を集めて、その集まってる男女の中に混ざって、場を和ませ、関係性のネットワークのハブのような役割となってシャッフルを促進させていく役割があるとしたら、ケイ素の心配や押し上げが欠けて余剰した名残り。

ボナパルタの絵本を聴いてる子ども達&平和の神様の元に集まる子ども達にとって、ハブ的な存在の人は、息子・娘の中でも、陽子②の父や、中性子①の母によって同性同士の比較で選抜されたリーダー的・アイドル的な神様で、それが最初の「多神教」の原型。

(選抜の仕組みが陽子②/中性子①)


これと同じ相似形の学校でいうと、生徒という立場で誰もが入学し、生徒をプロデュースする先生の選抜によって、皆に憧れられるリーダー的・アイドル的虚像(対象でありながら神様)に自分がなる事で、皆に注目されて、1(自分)対多数(クラスみんな)の関係になろうとする場合。生徒が同性との比較の概念に参加していく過程そのものが、生徒同士の憧れあいの「多神教プロセス」となってる。



これらは実際に人間関係でしょっちゅうあることだからわかりやすくて、例えば、親から結婚を急かされた時、これは誰かのウランの余剰と関係ある。

結婚してる友達とかを見て自分が焦ってくる時、これは自分のケイ素の余剰と関係あるという事。



結婚出来ないと、人生の敗者のように言われたり、逆に自分が常識に沿えれば勝者だと感じるようになってるが、本当は、勝者「口の大きな人」でも、敗者「目の大きな人」であっても、何か自分以外の損得で取り引きしたかったという動機は同起源・同意語であり、ずっと隠されてた矛盾が反射によって後に現実化し、現れてくるようになっていた。



同じような矛盾として、シャッフルでたくさんの双子組は最初アマカムと対立になったが、記憶用紙がなく「わたし」という感じ方が欠けてるところから始まったわけだから、双子の0人称とは別の自我とお面を作らなくてはいけなくなった。


鏡を憎んでるのに、鏡に映して利用しないと自我を作れない矛盾が発生した。これは地球の重力が憎いが、重力を使わないと生命ではなくなってしまうという矛盾と同じだった。


だから、鏡に映った自分の2面性を直視したり感じてしまわないように同起源を多解釈によって反対語のように分けて、対があるように見せかける仕組み【軸の起源】で、それぞれシャッフルしたお互いの虚像を交換する事で成り立たせるようになった【十字架の起源】。




その自我を作っていく過程が今までtwitterで1~4人称と書いてきた事。

でも、1~4人称の中には、双子0人称の記憶は最初から欠けていて存在してないから、余剰の不足をどう補うかから始まるので、欠けには全く気づかないようになっていた。

何人称になろうとも鏡に映ってる事で、自分の感じてる事にはならないために、

自分に自信があれば自分、なければ自分じゃない、というようなどちらも最初から個体ではなかったという「不確定性」が生じた。




この「不確定性」を最初アマが持つことは、最初カムにとってのウランの余剰の心配そのものだったので、そのなぞった結果が、物理でいうと、位置と運動量を同時に確認することはできない状態、鏡に映った自我で自分を確認したつもりが、自分自身がもともとどんな自分だったのか確認できなくて、「自分はこんな自分だ!」と自信を持って確認したつもりが、鏡に映ったら自分の悪魔が出てきて確認できなくなった、という状態を表し、内アマの記憶と個体性がない状態を指していた。






ウランとケイ素の心配❹に続く



ウランとケイ素の心配の特徴❷の続き


ウランの心配の特徴として、最初カムの鏡の反射の事が重要なのでそれについて書いてみたいと思う。


ウランの心配は、双子に裏返りがなくなる事だから、裏返りが欠けて余剰で発生した表裏のある事は全て「アマの死の可能性のパターン」として、鏡に映るようになってるとも言えるが、盤上自体がその表裏を起源としてるので、様々な矛盾が表れるという事がわかると思う。


でも、「今まで照らしてくれる光だと思っていた事がいきなり闇と感じるのは、元々同じだったものを別面から見たただの解釈だった。」とか、メビウスの帯の表裏が同じように愛=憎悪など、普段は盤上では片面だけしか感じれない状態だが、ウランの反射の性質は両面を映していて、殆どの場合、人にとっては受け入れ難い事実や出来事となってるのだと思う。



「本当の恐怖って何だと思う?もっと深い闇が見えたんだ」ってmonsterでヨハンがヒンデンブルクに言うところがあるが、あんな風に、最初カムのウランの心配の性質はそれがカムにとってはアマの死の恐怖であればあるほど、愛=憎しみを、光=闇を探して、同起源の様々な同意語を、言葉や見方や解釈では分けず、感覚で鏡に映し確認し、自分の心配の余剰だから、自分の記憶とする性質がある。



テンマが外科部長に昇進した時に、

「先生が外科部長になれたのは、あの人達が死んだお陰でしょ。あの人達を殺したいほど憎んでたじゃない(=院長達が死んでなくて、ヨハンが銃に打たれてなければテンマは手術の機会もなく昇進してない)」とヨハンがテンマに言う場面。

「命は平等だ、明日は光だ」というのを信条にしていたテンマ自身がまさか自分の見ていた光が他人の見ていた闇と犠牲によってこそ成り立っている(愛=憎悪)というのは直視出来ず、事実をヨハンに突きつけられて愕然とする。

これは、例えば、病気が作られなければ、病院や医師自体存在できないという事とも関係あって、病院にとっては患者は有り難いが、それは病院が病気で居続けて欲しい願望で成り立っているという矛盾があるのと同じ。


テンマ自身の殺意が反射し、鏡に映っていた事を消す為にはヨハンを撃つことでしか闇のない光を証明出来ないと錯覚し、ニナと共に鏡に映った虚像を追う。

そして最後には「もう気づいたでしょ?平等なのは死だけだ(=テンマがヨハンを撃とうとしている事自体が生の不平等)。」とテンマは更に強烈な事実をつきつけられる。


あとは、父として「怪物になっちゃいけない」と言ってくれたボナパルタをニナが母のようにかばったはずなのに、ヨハンの鏡に映ってたのはそのボナパルタの殺意(怪物)そのものだから、それを撃ちたかったニナは、ニナ自身が「両親を撃ちたかった」事になり、それをボナパルタのようにかばってくれなかったからヨハンを裁きたくなった、という感じにもなってると思う(自分を弁護する為に弁護士を目指す矛盾)。



以前は詳しくは書かなかったけど、最初カムが私の双子を追求した事も、

「君(私の双子)は最初アマに対して性欲があるのを私(最初カム)に隠さなきゃいけないと感じてて、もし最初アマが君に性欲を持てば、混ぜ合わせが出来る。それを私に見せつける事が出来たら、君は私が絶望するのを見れる。それが私と対等だと証明出来る事じゃない?それを隠す為に十字架を思いついた?その事を君の双子(私の事)は知ったとしたらどう感じる?私を絶望させようとする君に君の双子は絶望する?」

という風に聞かれた。


「それはとてつもない私の恐怖だ、ククク」って感じで、多分、最初カムは私のカムに思ったのだろうけど、結局、私の双子がどう答えたのかは知らないまま声は消えてしまった。



デスノートにそれぞれが憎んだ名前を書くのは自由意志になってるとして、最初カムは「好きに使ったらいいよ。私(最初カム)の名前を書いてもいい。」というような感じだが、最初カムはリュークではなく、デスノート自体の性質が最初カムみたいなものになってて、デスノートの表面は一見白いノートに見えるが、鏡になってる。

そこで他人の名前を書いたつもりが、自分の名前しか書けないようになってて自分に反射する、というような感じかなあと思う。

いくつか反射の性質の例を書いたけど、同起源の余剰(双子外で双子関係の欠けや余剰がブレとして肥大化する余事象)は、見方や言葉や解釈では影響を受ける事なく、人の感覚としては同じものとしてずっと変わる事はない、という身体の中からも身体の外でも実際に起こる日常的な出来事が最初カムのウランの反射の感覚に近いと思う。






このような出来事を数学的に書くと、


⚪︎プラスを累乗する指数関数

⇒ 基数というブレ

※「愛」と「憎悪」は、同起源なのに選択できるものだと思ってしまう余剰


⚪︎マイナスを累乗する三角関数

⇒ 円の半径というブレ

※「愛」と「憎しみ」が人生山あり谷ありだと思って、それを「そんなもんでしょう」と思って一つの運命(円)にまとめて楽しんでしまう余剰



指数関数と三角関数は、両方五角形の針の点の感覚ではない五角形の外側の仮装点のブレから始まる同起源(愛と憎悪は両方共回転)で地球の外部だが、それでは天秤での人間関係上の都合が悪いから、別々であるように見せかけざるを得なくて、その結果、


・経済では金利(指数関数)

・物理では波動(三角関数)


として、歴史上ではずっと別々の余剰として働いてきた。

更なる大きな余剰の虚数は、これらを別のものとして虚数に含めて統合する方法しかなくなり、経済と物理に働きかけるが、鏡の反射は同じように強くなるから、逆に盤上ではそれが同起源(実数も虚数も同起源で同意語だったという変わらない感覚)に近づいているという感じになって現れていると思う。


それが結局、地球と盤上の区切り線ともなってて、

水と光はいくら鏡に映しても起源は違うので交換不可であるが、光と闇は地球外の記録として同起源、同意語なので入れ替え可能。

ウラン原子(光=闇)とウラン元素(水)がはっきり分かれた事とも関係してる。




ウランとケイ素の心配の特徴❹に続く


ウランとケイ素の心配の特徴❶では、最初カムと最初アマのウランとケイ素の起源と心配の特徴について書いたけど、五角形に反発して誕生した逆五芒星(鉄鏡に光である自我が映った太陽の始まり)も同時に、このウランとケイ素が欠けて余剰した盤上の起源でもあって、ウラン原子とケイ素原子となる。


それぞれの特徴を書くと、


もやもや水の性質であるウラン元素の記憶は欠けて、地球の記憶の外部として光の性質となり余剰したウラン原子は、


⚪︎父お面のボナパルタ(仕組みの神様)が持ってるような不完全さから発生したシステム的な殺意、アマ全般に対する憎悪の余剰。

⚪︎ニナ(平和の神様)が持ってるような身体の起源になれない事に対する憎悪、鏡に対する怨念の余剰。


父母の概念が全て鏡に映った状態(一神教的な意識の元となる原子核)。

主に原子核の反応に集中される。


もやもや火の性質であるケイ素元素の記憶は欠けて、双子の記憶の外部として擬水となり余剰したケイ素原子(アマの意志ではないネットワークの余剰全てが鏡に映った状態)は、


⚪︎エヴァ(美・表現の神様)が持ってるようなアイデンティティを守るための憎悪、鏡に対する怨念の余剰。

⚪︎ルーエンハイムでの息子お面のボナパルタ=ポッペ(関係性の神様)が持ってるような条件への反発から出てきた体に対する殺意、アマ全般に対する憎悪の余剰。


息娘の概念が全て鏡に映った状態(多神教的な意識の元となる電子核)。

主にその電子殻の反応に集中される(半導体など)。




鉛筆「無の絶対性(自然)」の余剰反発から発生した「幾何学的絶対性(父母:原子核)」と「数学的絶対性(息娘:電子殻)」の関係




カム側でウラン・ケイ素の心配が欠けて余剰した場合と、アマ側でウラン・ケイ素の押し上げが余剰した場合とそれぞれあるが、双子だけの関係を表す五角形の裏返りが、表裏のリバーシブルで複数の人の余剰で構成される逆五芒星として始まってしまい、ウランとケイ素の鏡に映り乱反射の虚像となる。



その結果、[与える/受け取る]の最初のてんびん座天秤関係が現れるが、天秤が同型の金銭の貸し借りと同じで、与える方(贈与)は必ず見返りを要求する前提だから与える側となっているので、後に受け取る側(受贈)となる事を目的とし、神(→人間)と人間(→神)の合成関係が作られてしまう。

相似形としての家族だと、父母(→息娘)と息娘(→父母)のシーソー関係。


お互いに見返りがあって、贈与 ⇄ 受贈の関係の対価に納得しており、金利で天秤のバランスを保ってる場合は収まってるが、愛=憎悪(エネルギー)の天秤落差を原動力にしているのでバランスを崩すと、表面では一見、愛に見えていたものが、裏面では同意語の憎悪として噴出するという問題がある。



組み合わせとしては以下のような感じ。


                 《物・サービスなど》

🌭与える側(贈与)⇄ 🍽受け取る側(受贈)

                     《感謝・金など》



父:外装カム ⇄ 娘:外装アマ

成母:外装アマ ⇄ 成息:外装カム


母:内装アマ ⇄ 息:内装カム

成父:内装カム ⇄ 成娘:内装アマ


父:外装カム ⇄ 息:内装カム

成父:内装カム ⇄ 成息:外装カム


母:内装アマ ⇄ 娘:外装アマ

成母:外装アマ ⇄ 成娘:内装アマ


※普通は外装か内装どちらからか始まるが、元父のように双子がいなくて最初から外装と内装のお面を兼務したい場合もあるので注意



心配と押し上げが欠けて余剰したカム(凸/凹)とアマ(凸/凹)の相補関係

心配が欠けて余剰したカム(凸/凹)とカム(凸/凹)の相補関係

押し上げが欠けて余剰したアマ(凸/凹)とアマ(凸/凹)の相補関係


既に最初の花火の記憶が欠けた中で、まず🌼組の中で十字架が構成されて、その後🌼🌻両組で混ぜこぜシャッフルになり、十字架の光と闇の虚像関係が始まる。



[与える/受け取る]の最初の天秤関係の中で発明された神様という存在があって、神様が人的なものかシステム的なものかというのはあるが、


ポップコーンの例で言うと、

最初アマがもし神様を信じてしまって、


・ウランの余剰した場合 ➡︎ 双子起源の喪失

ポップコーンの双子関係の裏返りは他の誰か料理人(神様)が見てくれていたから発生したと思い込み感謝してしてしまう


・ケイ素の余剰した場合 ➡︎ 自然発生記憶の喪失

コンロシステム(神様)によって、自分の火の意志(火)が作られて成り立っていると思い込んで信じてしまう



という心配が最初カムにはあった。


でも、やっぱりアマが余剰して死んでしまう可能性の心配をなぞって余剰(心配を憎んで反発)したかった意志を元から持っていた双子組の人達もいたから、

後にそれが「料理人やコンロシステムによって、最初アマ(ポップコーン地球)は創造されている」と信じさせたい、という創造論も現れた。


最初の地球では、これが最初カムの鏡に映った事の反射の始まりでもあって、ここから「神(創造者)」という概念が始まり、



丸レッド一神教的(ウランの余剰)

一対多数で双子はシャッフルする世界が始まり、どんな仕組みの中なら双子の裏返りを排除できて、皆が神の配偶者になれるかの概念が発生


ウランを余剰した一神教哲学と、ヘリウムが余剰した装飾・芸術が融合し、現代風に洗練されて現れたのが政治・家族(父母息娘)社会。

大家族の構成は再度派閥において分裂されるので、後に多神教に戻る。


丸レッド多神教的(ケイ素の余剰)

多数対一で双子はシャッフルする世界が始まり、どんな条件の中なら双子の条件を忘れれるかを選ぶ、神との自由恋愛の概念が発生


ケイ素を余剰した多神教哲学と、炭素を余剰した科学が融合し、現代風に洗練されて現れたのがAI(多数の母神)社会。

多数の理論やプログラムは再度一つに統合されるので、後に一神教に戻る。



2つに分かれるようではあるが、光と闇は元は鏡の反射による事の同一起源でもあるから、一神教側(多神教側)を光とすると、闇の部分が多神教側(一神教側)になるので、お互い鏡に映った自分を見たくなくてシーソー対立・シーソー協力する場合が多い。




ウランとケイ素の心配の特徴❸に続く




今年もありがとうございました。



もうほとんどブログはまとめれたので、あともう少しで終わりなのだけど、また来年もよろしくお願いします。


今年最後として「ウランとケイ素の心配の特徴」の事を書いておきたいと思う。


ウランとケイ素の心配は、五角形全体(外側も内側も)と五角形中心の心配だから最初カムの心配の大元であり、それを最初アマが押し上げた事で生命の発生の起源ともなった。


最初の花火として一番わかりやすいのは、よく私が書いてるポップコーンが裏返る話。

内アマの意志(後に地球では火として現象)が、カムの心配(後に地球では水として現象)を押し上げて、五角形の外側(ウランの心配)と中心(ケイ素の押し上げ)が裏返り、外アマが自己発酵して出てきた例。


ここで注意なのは、最初の花火は盤上が発生する以前の自然発生だから、生活においてのコンロというシステムがあるから火がついたのではなく、水という心配が落ちてきたから自然発火した事と、最初の花火の自然発生時は、料理人(観察者)もコンロ(システム構造)もまだ存在してない時で、飛び出てきたポップコーンと火をどう扱おうか、と自然発生後に慌てて考えた時に、始めてシステム構造や観察者という概念が現れた、という事。だから実際には、火が外部にあるわけではなく、ずっとポップコーン(外アマ:身体)の内部に火(内アマの火:心)がある。


火(アマの心)が体の外部からもたらされたと思ってしまい、コンロや料理人がいたからポップコーンが創造されたとして逆になってしまった時に、ウランの心配のところの真空は本来カム側のはずなのに、敷地として元母 and 内装アマ側が真空とされてしまった(盤上の発生)事と、ウランとケイ素が双子間だけの裏返りのはずが、自分と他人の裏表として余剰したという注意点があり、それが光の表裏が出てくると、その媒体・0地点としての時空に表裏ができるという盤上での矛盾となってる。

体で例えると、双子間での内臓があるからこその裏返りなのだけど、自分と他人の体の皮膚だけがリバーシブルに表裏となってしまった(内アマの心である地球起源と内臓感覚を失う)という感じになっている。




ウランとケイ素の心配の起源


ウランとケイ素は共に「カム母とアマ赤ちゃんの関係がどう成り立つか、成り立たないか」の心配を表している。


水素とヘリウムは、カムが悲しい、カムはきれい、アマはかわいい、カムは居ない、アマは居るなど「カム母とアマ赤ちゃんの関係の感じあう感覚」の心配を表しているが、

ウランとケイ素は双子の感覚自体が成り立つ為の意志の問題、条件の問題とかを最初カムが心配した記憶。



⚪︎ウランは双子関係の心配

⚪︎ケイ素は双子条件の心配



例えば、カム母にとってアマ赤ちゃんの意志が自分の意志だが、だからといってアマ赤ちゃんの意志が双子の決定権を表すわけではなく、アマがそう思い込むと逆に感覚が欠けて余剰し大変な事になってしまう。


アマが「カムに向かって会うために走りたい!」という意志があったとする。

でも、アマが走り出すと100%必ず石でつまづいてこける条件があったとしたら、アマとカムはいくらアマの意志が全てでも会う事は出来ない。


もし、アマの「走りだす意志」がなければ、アマの意志がカムの意志だから、双子自体必要がなかったという事にはなってしまうが、

アマに「カムと会うために走り出す意志」があった場合は、同時にカムが感じていた「必ず転ぶ条件」もアマが感じてて、「どんな状況でも転んでいない覚悟」がないと、双子は成立しないし、アマが自分の意志に自分で気をつけて走る必要性がわからなくなってしまう、というような心配。



アマが「双子はもしダメな時は一緒に枯れる・一緒に終わりたい」事を意志としていたから、この例としての「必ず転ぶ」条件を、実際の「必ず双子の裏返りがなくなる」条件という心配に置き換えてみると、


ウランは、カムが生となってしまったり、アマが死となってしまったり、生と死が入れ替わる事(必ず転ぶ条件)で、裏返りの双子関係が壊れてしまう心配


この心配をやってしまってると、アマの意志が「会いたい!」であっても、双子の関係から外れて会えない。


また、アマが「双子は失敗したくない」事を意志としてたこともって、カムのケイ素の双子条件の心配は、最初の意志は「失敗することもない1つ」しかないんだから、双子の条件も「双子は一度っきり」で、取り戻せたりしない(だから双子にはお互い過去や未来という感覚はない)からこそ、生と死の感覚が成立するっていうことがわかっているかという最初カムの心配の記憶(双子条件)となっている。


だから、生と死の感じ方には、はっきりと違いと境目、区別があり、アマにカムの性質があったり、カムにアマの性質があったりせず、でも、アマとカムがお互いの感覚を感じれないわけではない、という事が必要だった。



ケイ素は、アマがアマカム半々で合体させてしまい、双子の落ちる押し上げるの双子条件が壊れてしまう心配



アマは、双子の裏返ってる関係がなくなる条件(五角形の外側)も、成立してる条件(五角形自体)も同時に感じ、「自分の意志に自分で気をつけて走る(自分の意志の確認)」事で、ケイ素の押し上げる意志(五角形中心)となっている。

ウランの心配とケイ素の押し上げの裏返り関係。




だから、ケイ素の「動覚」は、アマの身体が始めて動き出す起源(生命全てにおいても)だが、生命の動きは双子が成り立たない条件と成り立つ条件を同時に押し上げる意志によって動いているという事。



タラーウランは「アマがカムに会いたい!」といっても、アマとカムが会えているかどうかを確かめれる感覚は、五角形全体での裏返った双子条件で決まるものなのでアマの意志で勝手に決めれるのではないと心配してた事。


➡︎これは言い換えると、双子は最初から誰かが決まっている感覚の元で、混沌から世界は始まってはいないというアマの記憶(余剰するとシャッフル)



タラーケイ素は「アマの意志がカムの意志(ウラン)だからアマの意志が全てだが、双子の条件が成り立つのは一瞬の出来事だよ」とカムが心配してた事。


➡︎これは言い換えると、双子は一瞬一瞬の意志、砂時計の感覚の元で、時間の経過が双子にとっての成長があったり良いわけではないというアマの記憶(余剰すると成長進化の概念)





丸レッドウランの心配の特徴と注意点

アマが「もし双子がダメな時は双子は一緒に枯れる・一緒に終わりたい」事を意志としていた事もあって、ウランはカムの「アマの意志を自分の意志とする覚悟」の元素だから、ウランの心配が欠けてないカム(今のところ最初カムのみ)は、アマが双子の関係をいらない意志だったなら、それを実現するのがカムの意志だし、アマが双子の関係をずっと失わずにいたい意志なら、それを実現するのはカムの意志だと感じている。鏡の性質の本質の元素。


《最初アマのウランの押し上げのキッカケ》

ウランはカムの「アマの意志を自分の意志とする」覚悟。それを感じてアマは赤ちゃんとしてビックリした。

その時にアマがカムに「早く私の意志を鏡に映したい。私の意志でずっといて!」と向かって言ったこと。

カムはそれを聞いて、「私って居なかったんだ」って自分が鏡である感覚を思い出した。


でも、これはアマが自分で自分の意志が汚れてないとわかっていて、自分が自分であるとアマ自身が確認できていなければ言えないことだったと思う。「私の意志でいて!」という事は、自分の意志が汚ければ、「あなたも汚くなって」という意味になってしまう。「カムはアマの意志でしかない事」をアマがわかってる意志(鏡だとわかっている意志)であることが重要だったウランの押し上げ例。



丸レッドケイ素の心配の特徴と注意点

アマが「双子は失敗したくない」事を意志としていた事もあって、ケイ素はカムの「双子は一度っきり」という元素だから、ケイ素の心配が欠けてないカム(今のところ最初カムのみ)は、「生」は「生」で「居る」を続けること、「死」は「死」で「居ない」を続けること、それらの双子はやり直せない針同士の緊張感を感じていて、たとえ外カムが内アマの声が聞こえていなくて、外アマと離れていても、カムは心臓(元は最初にカムの子宮があった場所)の中に内アマによるアマの意志が感じられる。


《ケイ素の押し上げのキッカケ》

ケイ素の押し上げは、アマの「カムの条件を自分の意志とする」覚悟。それを感じてカムは母としてビックリした。

アマが「心配は無駄じゃなかったよ。カムの死は私に全て責任がある」とカムに向かって言ったことで、カムは落ちた時に押し上げられたこと。

カムはそれを聞いて、「私の心配は取り越し苦労だったのか」という始めて安心を感じ、死のカムが少しだけ死のまま生きてもいいかもしれないと感じた瞬間。


これは、カムが落ちた時に、五角形中心のカムの双子条件による死をアマの生の意志とする決意と、それに対する「ちゃんとそれには期限や条件があるのか?双子は取り戻しとかないよ」という双子条件(アマの意志が不確定になる心配)の元素でもあって、地球で双子が会うのも7回までという最初の約束もケイ素の心配の押し上げ時に決まった。

アマ赤ちゃんのカム母に対する責任感がなければ、「死」のカムに対して「生」を保証することになってしまい押し上げれないし、「カムが既に死んでいる事(がらんどう)」をアマがわかってる意志であることが重要だったケイ素の押し上げ例。





虹虹虹

アマの意志を自分の意志としている最初カムの決意の記憶(ウラン:双子関係)だが、死と生はちゃんと区別・境目があって、カムがアマになったり、アマがカムになったりするわけではなく(ケイ素:双子条件)、双子の裏返りはアマの意志をカムが全て知っていて、カムの心配をアマが知っている、お互いの「自分しか知らない記憶」がある。

最初カムの「反射(U)」と「注意(Si)」は一見反対の性質のように感じるが、最初カムにとっては両方とも同時にアマ側に感じていた事で、

ウランはすべての元素の前提であり、ケイ素は条件からの注意という一番心配らしい元素だと思う。

この2つの元素の感覚によって、生命はとても力強く生きる意志がありながらも、注意深く繊細な性質がある。



鳥と飛行機

テーマ:

同じように飛んではいるが、鳥は自然が起源であるけど、飛行機は人間の思考が起源。


飛行機は、人間の科学と技術の集大成であるが、地球から離陸(飛ぶ)するのが目的。

重力から自由になりたい、あらゆる所に行きたいなど。


でも、鳥は離陸するのが目的ではなくて、地球の中心から空間を押し上げるのが目的。

だから、重力から自由になるのではなくて、重力をより感じるために、水の中から押し上げてきてる気持ち。それが飛んでいるように見える(カム側のフクロウは鳥でなく空間自体で落ちてるから音がない、押し上げるのはアマ側の鳥だけ)。


鳥には飛行機が単純すぎてどう飛んでるのかよくわからない。

飛行機には鳥が複雑すぎてどう飛んでるのかよくわからない。


人間から鳥を見ると、人間のように鳥は賢くなるかなあと思われている。


でも、複雑な感じ方をもってる鳥からすると、人間が構造化された一つの感じ方しかない(言葉を持ってる)から、単純すぎてとても難しい。


これはどういう事かというと、

人間にとっては、アスパラガス2本と大根3本を足して「五本」や「合計金額」として足す事ができる余剰の思考あるが、鳥にとってはそれぞれ感じ方の記憶は違うから足すことができない。

これが、盤上は数学や物理で出来てるが、自然には数学や物理がなく、科学が自然の中に法則を探しても見つからない理由(元々存在しないものをいつか見つかるんだ、見えてくるんだと思い込む)。

でも法則化したくて自分が法則化してしまった人間の意識は鏡に映ったものとして見つかるから、それが自分の探してたものだと思い更に余剰が膨らむ。

そんな風に盤上では、数学や物理ができることは「賢い」というイメージがあるが、複雑な感じ方が欠けてしまった結果、余剰の産物として数学や物理や言葉が現れてる。


これは、最初カムの炭素の心配とも関係があって、アマがもし炭素を余剰してしまい、下の事をちゃんと区別できていなかったらという心配。



丸レッド自然の起源

[複雑 ➡︎ 単純]

もともと複雑さの具体から考えられていて、あえてそれを抽象化すると単純になるものがある。


例)

コーヒーと牛乳 → コーヒー牛乳とはならない


コーヒーと牛乳はもともと別々でかつ同時に記憶の違いが考えられていて、たとえコーヒー牛乳として一見混ざったように見えても別々の記憶として感じるようになってるのが自然の記憶の起源(式や言葉で言い表せない)。



丸レッド人間の思考の起源

[単純 ➡︎ 複雑]

単純なものから複雑化していくと考えられるから

擬抽象を元に擬具体を作る


例)

コーヒー+牛乳 → コーヒー牛乳


コーヒーと牛乳は、混ざったり含まれる前提で考えられていて(法則化する概念)、それぞれの記憶の違いはなく、混ざってコーヒー牛乳になることが複雑になることだと思われていて、「コーヒー牛乳の味」としてシンプルに統合することのが人間の思考の起源。




これは人体にも同じ事が言えて、

ある共通の部品があって、その後に複雑に考えられたのではなく、人体の起源は最初から複雑に考えられたということ。