伏見の城は何処に有った? | さすらいの武士

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現在伏見城は伏見キャッスルランドと呼ばれてますが、あの模擬天守閣と小天守は元々正確に再現されたものではなく、それどころか本来の位置には建っていないのです!

天守閣そのものはおそらく豊臣時代のものを元に再現されたのでしょうが、天下人の城は本来もっと強壮な城郭で有った筈ですね。
そもそも最初の伏見の城は指月山と言う場所に建てられましたが、地震で崩壊した後は木幡山と言う所に更に巨大な城が建てられました。
これが指月山伏見城と木幡山伏見城の位置関係で、家臣団の屋敷を惣構えに並べ建てたあたりから天下普請の城であると分かります♪
関ヶ原の戦いの折りには伏見城に籠城した徳川家臣が最後まで東軍を引き留め、最後にはほぼ全員が討ち死にしたそうです。
正伝寺の縁側にはその際に切腹して果てた徳川家臣の血の跡が残る床板が、血天井として残されているそうです(^_^;)
でも何か武士の顔みたいなに見えませんか?
大坂の陣の後は二条城と伏見城の了解城を維持する事も困難になり、また必要も無くなったので伏見城は解体されたようです。
さて時代が移って大政奉還で江戸時代が終わりますと、伏見城の跡地には明治天皇が眠る陵墓として利用され伏見御陵となります。
伏見御陵への参拝道脇には伏見城遺構の石垣等が残されてますが、天皇の陵墓と言う事なので大規模な発掘調査は出来ないようです。
今でも本丸跡・土塁・天守台・空堀・水堀などが残ってるので、出来ればきちんと発掘調査はして頂きたいもんですねぇ(^_^;)