【被告人質問】
検察、弁護側双方の資料も全て出揃い、慎重に評議を重ねてから被告人質問へと移る。
証言台に立った被告の表情もそれまでとは少し異なり、緊張の面持ちで裁判長の言葉に耳を傾けている。
この日も45席ある傍聴席はほぼ満員。裁判員制度担当の報道陣は各社1名ずつで担当
しているらしく、ごく少数の報道関係者用に用意されたカバー付きシート以外は全て
関係者か一般傍聴人のはずだ。
中には明らかにその筋と見られる傍聴人も何名かいる。大きく取り上げられた事件で
ないにも関わらず、この人数は異例のことだという。
既に過去数回、刑事裁判を経験している被告は、時折人懐こい笑みを浮かべながら
陳述をするが、途中何度も弁護士や裁判長に発言を制止するよう求められるなど、
話し出すと止まらない性格のようだ。
一貫していたのは、明らかに自分の主張を通そうとする強固な意志のみで、何故
この場にこうして立っているかは、拘留から半年以上を経ても考えたことなどないの
ではなかろうかと想像される。
少なくとも初公判で、被告を初めて見た折りに希望した性質の男ではないことが残念
だった。往生際の悪さは、必要以上に人を醜くする。
殺意を否認しつづけているものの、状況証拠から見て、明らかな、また強烈な殺意を
否定することはできない。
子細を確認する度に、結局この男は、家族を守る為でもなく、妻に裏切られたことへの憤りでもなく、単に男の面子を傷つけられたが故の凶行である気がしてきた途端、
被告に同情した自分を少し後悔した。
そうなると当然心証は、検察側の資料を見て抱いたものとは異なってくる。
評議室に戻り、審理を元に評議を重ねていく。我々は神ではない。だからどこまでが
真実なのかを知ることは出来ないが、少なくとも見ず知らずの人間のために、ここまで本気で悩むことなど、過去にも未来にももうないだろう。
そこで気をつけなければならないのは、あくまで証拠に基づき事実を認定し、この男の行動心理を時間の経過と共になぞり、それを理解した上で一般人の感覚として、容認できるかできないかを論じるのが我々裁判員の役割だということ。
専門家としての裁判官の認定方法とは異なっていても、それは或いは当然なのだという前提を忘れないことだ。
日本人は、ディベートが苦手な民族でもある。それは幼い頃より「負けるが勝ち」という美徳を教え込まれて来ているからで、無理に弁論をしようものなら、政治家(かつての管さんと小沢さんなど)のやりとりを見てもわかる通り、国政を担う人間ですらお粗末な印象を与える程度の技術しかない。
評議を重ねていくうち、たった数日間、同じ部屋で互いの人間性、知力を探り合った結果、ボス(主体となる人物)が自然と決まるのは猿社会にも似ている。
評議の際に個々に裁判官が発言を求めるのだが、口を噤む裁判員の躊躇に口火を切るのは常に私であり、他の人は「○○さんと全く同じ意見なのですが」と、必ず私を引き合いに出すようになってきているのを、少々危険だと思った。
中には特別な意見を持たない人もいるわけで、仮に、私が同じくらいの影響力を逆説を持って及ぼしたとしたら?
つまり論点をすり替えることぐらいは朝飯前の人間がイニシアチブを取ったとしたら?
正直な感想として、私が国選でなく一般の正規の報酬を受ける弁護士として依頼された立場だったら、もっと被告に有利な、或いは全く違う論拠を叩き出して裁判に臨んだに違いない。
裁判官の性格や裁判員の年齢や表情からそれを読み取り、どこが落としどころであるかを見るくらいは、するだろう。
または、完全に情に訴え、酌量を勝ち取る作戦を全面に押し出したかも知れない。
となれば、結果をある程度操作することは絶対に不可能という話ではない。
誰かが強烈な印象をもって理路整然と白と言えば白、黒と言えば黒へ、なんとなく総意が流れてしまうかもしれないこの国の人々の優しい性質が、私が日本での裁判員制度に反対している理由の一つとなっているわけで、実際に裁判員を体験してみて、その思いは益々強くなってしまった。
後にお茶を飲みながら彼らが語ったのは、「○○さんが全部言いたい事を言ってくれたので助かりました」とのことだが、本当にそれでいいのだろうか。