元弘3年(1333年)5月8日、偶然にも今日の日付ですが、新田義貞は鎌倉幕府打倒の兵を挙げます。
前回ご紹介した州崎の戦いで勝利した新田軍は、翌早朝から鎌倉への攻撃を開始します。
進撃のルートは3つです。一つ目は、左側の矢印です。州崎から手広を通り江島道を南下し、極楽寺坂の切通しに向かうルート、二つ目は、右側の矢印です。州崎から山崎を通り、亀谷坂・巨福呂坂(こぶくろさか)の切通しから進撃するルートです。三つ目が、中央の矢印です。州崎から梶原・常盤を抜け、化粧坂、大仏坂の切通しを通る鎌倉街道のルートです。
イメージ 13

一つ目の江島道を通り、極楽寺坂に進撃するルートは、大舘宗氏・江田行義らを差し向けます。新田勢は兵力が優勢でしたが、天然の要害となっていた鎌倉の切通しの守りは硬く、混戦が続きます。
イメージ 1

一旦は、稲村ヶ崎の波打ち際より鎌倉への突入に成功しますが、後続の兵が続かなかったため、幕府軍の包囲攻撃にあい、大舘宗氏ら11人は稲瀬川で討死し、残ったものは、仏法寺に立てこもります。
イメージ 2

イメージ 3

二つ目のルートの州崎から山崎を通り、化粧坂切通しを抜け、亀谷坂・巨福呂坂の切通しから行われた進撃には、堀口貞満・大島守之らが差し向けられています。このルートでは激しい攻防戦が繰り広げられています。
この写真は、昨年の秋の紅葉に撮ったものを使用しています。
イメージ 4

イメージ 5

イメージ 19

イメージ 6

ここは、亀ケ谷坂の切通しです。
イメージ 7

ご存知の通り、鎌倉に入るには、自然の要害となる7つの切通しを通るしかなかったため、兵力で勝る新田義貞軍もついに鎌倉に攻め入ることはできなかったのです。
イメージ 8

この切通しは、巨福呂坂の切通しです。現在は途中で行止りとなっています。
左に見えるトンネルは、「巨福呂坂送水管路ずい道」です。これは、明治後期から大正期にかけて作られた水路の跡です。日露戦争で勝利し、海軍力の増強のため、横須賀海軍工廠の拡張のため用水の補給が必要となったため、53キロ離れた相模川支流の愛川村から横須賀まで配水するために整備された戦争遺跡です。山の反対側にも同様の断面があります。後日紹介します。
イメージ 9

「史跡 巨福呂坂切通し」と書かれたと思われる道標は錆びついた状況でした。
イメージ 10

路面はアスファルトとなっていますが、崖下にある道祖神が当時の様子を偲ばせてくれています。
イメージ 11

イメージ 12

三つ目の州崎から梶原・常盤を抜け、化粧坂、大仏坂の切通しを通る鎌倉街道のルートには、新田義貞と弟の脇屋義助が主力を率いて攻撃しました。
しかし、切通しでの攻防で混戦が続いたため、新田義貞は、弟の脇屋義助に任せ、自身は大舘宗氏が戦死した極楽寺坂に転進します。
今も微かに残る大仏切通し。
イメージ 14

イメージ 15

新田義貞の軍は、大仏坂の切通しを抜け、大舘宗氏らが討死した極楽寺坂の切通しに向かいます。
イメージ 16

多くの兵士が命を落とした極楽寺坂には石碑が建てられています。
イメージ 17

この合戦により、当時の極楽寺は焼き払われてしまいます。
イメージ 18
次回は、新田義貞が極楽寺坂切通しを抜け、稲村ヶ崎から鎌倉に突入する場面をご紹介いたします。