岳麓書院(Yuèlù shūyuàn)
訪問日 2021年7月25日
中国古代の四大書院の一つ。
この四大書院の数え方はいくつかあるのだが、この岳麓書院は絶対に外されることがない。
まっ、行ってみますか。
今は地下鉄が出来て、最寄りは湖南大学駅で降りて向かう。
真っ直ぐ進めば岳陽書院。
道の両側は湖南大学。
道を真っ直ぐ進むと毛沢東像にぶちあたる
毛沢東像の左手には、レンガ作りの湖南大学の学舎。風情があるな。
更に道を進むと、昔の湖南大学の大礼堂
1951年に建設を始め、1953年に完成したという。長沙市人民政府の近代保護建築に指定されている。
さて、WeChatのミニプログラムから入場予約。予約成功!
岳陽書院の見取り図。今回は地図下の大門から地図上の裏門へ抜けていきます。
では前門から入場!
学校が夏休みということもあり、子ども連れの人が多いです。
赫曦門(Hèxīmén)と岳麓書院の碑
「岳」は新字体でもあり簡体字でもあったんだ。と
岳麓書院の説明を抜粋すると、、、
「中国古代四大書院の一つ。北宋開宝九(976)年に潭州太守の朱洞洞によって創建。元、明、清とここで学校が運営される。光緒二十九(1903)年、名前を湖南高等学堂に改めて、1926年名前を湖南大学に定めた。」
先に文廟に行ってみます。
孔子像。写真の写りが悪かった…
大成門
大成殿
大成殿のなかには孔子の彫り絵
大成殿の裏には崇聖祠。だが解放されてなかった…。とほほ。
来た道の方を振り返ると、人は本当に少ない。ひっそり感が漂う。
岳麓書院の大門。
この対聯「惟楚有材、於斯為盛」を紐解くと、意訳すると「楚国は人材を輩出するところ、ここ(岳麓書院)は楚国の英才が集まるところ」となる。
惟楚有国は書物『左伝』の虽楚有材、晋実用之がベースであり、於斯為盛は『論語(泰伯)』の唐虞之際、於斯為盛がベース。尚、唐虞は虞美人のことではなく、夏代の唐尧と虞舜の二人の時代の事で、孔子がこの二人の時代のことを” 於斯為盛”と褒めた。
さて二門。
講堂
「事実求之」の扁額
民国初期、湖南工専学校校長先生であった兵歩程が定めた校訓である。
講堂内
手前の「学達性天」は康熙二十六(1687)年、康熙帝の手書の額が授けられる。
奥手の「道南正脈」は乾隆九(1744)年、乾隆帝の手書の額が授けられる。
教学斎
緑眩しい
軒下は廊下となっている
教学斎は現在お土産屋さんとなっている
焼き物があったり…
切り絵やペンなどもあったりする
半学斎
教学斎と対になる造りの建物
半学斎の半分は陳列館となっている
昔のものでしょうか??
四大書院に関する説明
一般的には、嵩陽書院(河南省登封)、白鹿洞書院(江西省九江・盧山)、応天府書院(河南省商丘)、岳麓書院の四つが四大書院と言われる
半学斎の中庭に出てきました
毛沢東の仮住まいが残されています
湖南大学設立の準備する事務所が毛沢東の仮の住まい(時代背景の前後がわかりませんが…)
こちらが毛沢東の仮住まいの寝室
講堂の裏手にある御書楼
宋代咸平二(999)年に、岳麓書院の書籍の保管のために建てられたのが始まり。一時14300冊の本が蔵書されていた大型の図書館でもあるが、書楼の理念は「蔵書することが大切ではなく、書物を読む事が大切」と解いた。
御書楼は解放されてはないが、今もなおたくさんの書籍が保管されている。
園林へと抜けてきました
回廊には石碑が埋め込まれている
屈子洞
中国戦国時代の詩人屈原を祀る。2006年の場所の建築。
裏手の出口が近いです。竹林です。
裏門を出ました。人がたくさんです。
実際には細かく紹介すれば、もっとたくさんの部屋や由緒あるものがありますが、そこは省略ということで。
終わり。