父親の死

そうした中、平成21年(ようこさん30歳のとき)、父親が肺炎となり、わずか2日の入院で急死してしまう。母親といい、両親を相次いで、しかも突然というかたちで亡くしたようこさんは一人残されることになった(ひとりっこである)。

それでも、葬儀を無事終え 、さらに転職も果たした。そして、父親の死から1年、一周忌の準備をしていた平成22年のこと、ようこさんは激しいうつ状態に陥った。

食欲不振が続き、診察の際泣いてしまい、即入院である。このときも任意ではなく、医療保護入院という形となった。閉鎖病棟、大部屋で、入院生活は半年に及んだ。

退院後の平成23年、就労支援施設に通所をはじめた。

翌年、障害者就労枠で就職を果たす。

この頃の処方は、

エビリファイ6ミリ錠×4朝

ワイパックス0.5ミリ錠×1 朝昼夕

セロクエル25ミリ錠×1 就寝前

頓服薬レキソタン2ミリ錠


しかし、ようこさんは、仕事の業務内容と自身のスキルのギャップに悩まされたため、医師に言うと、医師はセロクエル25ミリを頓服で飲むように勧めた。そして、結果的に、 昼休み時にセロクエル25ミリ×1とレキソタン2ミリ×1がないと、働けない状態になった。さらに、体重が20キロ増加した。

平成24年、過労のため休息という名目で再び入院。今回は任意入院で、4か月間、閉鎖病棟の大部屋だった。

そして、退院後 会社から自主退社を促された。


薬の副作用

副作用はいろいろなものを経験したとようこさんはいう。

たとえば、セロクエル25ミリを1日最大(頓服も含めて)3錠飲んでいたときは、起き上がることができないほどの倦怠感、虚無感があった。にもかかわらず、四肢のむずむずした違和感があり、じっと横になり続けることができない。

いま思えばアカシジアとわかるが、当時は自分でもどうなってしまったのかわからず、こうした「動き回りたいのに動けない」状況を主治医に告げると、以下のような返事だった。

「統合失調症の陰性症状によるもので、セロクエルを飲まないと、もっと深刻になる」

ようこさんがこのことを何度訴えても、医師はこの一点張りだったという。

さらに、頓服使用していたレキソタン2ミリ錠を1日最大3錠服用していたときには、移動中の電車内で尿漏れも経験した。

また、エビリファイ6ミリ錠×4錠と、ワイパックス0.5ミリ錠×3錠を4年間服用したが、その頃は、感情平坦というか、無感動状態。

「悲しみもないぶん、喜びもないので、生きている実感が正直なかったです」という。

 そして、もっとも深刻な副作用としては、白血球数が正常値を遥かに越える高い数値を叩きだしたことである。この件に関しては、入院中の定期血液検査により判明したため、精神科から内科への転院処置を行ってもらえず、医師も原因は「わからない」とのことの放置された。

しかし、ようこさんが笠先生にセカンドオピニオンを求めたときに(笠先生からは、甲状腺ホルモンの検査をできれば行った方がよいとアドバイスがあった)、この白血球数の異常な高い数値というのは、おそらく免疫がセロクエルに反応して、過剰な自己防衛を起こした結果ではないかとの話だった。尚 断薬後の現在は白血球の数値は正常になっているそうだ。

さらに、月経前の自己破壊衝動を抑えるのも苦労した。(1度首を吊ったが、途中で我に返り、がむしゃらに脱出したため事なきを得たという)


減薬・断薬

 こうした副作用の数々(20キロオーバーの体重)に疑問を感じたようこさんはネットによる情報収集に取り組んだ。結果、自身への投薬は過剰ではないかと思いはじめ、減薬を決意したのだ。

 まず、就寝前セロクエルと頓服薬使用を断ち、ついで、朝昼夕のワイパックスを「朝のみ」をしばらく行い、平成24年夏以降エビリファイ6ミリ錠の1錠を半分に割り、3錠半の服薬を試み、その後3カ月単位で減薬していった。

 そして、平成25年春以降、完全なる断薬が続いている。

主治医には申告していない。

しかし、体重は元に戻った。もちろん、徹底した食事バランスへの配慮と、水泳を始めたことも効果があったのだろう。

そして、平成26年現在、断薬して1年経過しているが、「情緒は安定し、手指の震えもなく、毎晩快眠毎朝快便」とのことだ。


ようこさんのメールを紹介する。

「頓服として処方されているものから絶対に飲まない、という強い志、というと大げさですが、副作用と思われる苦痛の方が、目前の心を乱す事象より、自分にとって苦痛だと、自宅で声に出して言い、薬を遠ざけておりました。

 ただ、エビリファイ6ミリ×4錠の減薬には神経を払いました。私は朝食後服用が指示でしたので、週末土日に3.5錠(カッターで錠剤を半分に割りました)服用して過ごす。1か月様子を見ました。むず痒いような違和感を覚えたり、まるで禁煙中にみられるようなイライラや、短気さがより激しくなりましたが、6ミリ半錠分の主成分が体内から抜けると信じてやり過ごしておりました。

幸い、離脱症状というよりは軽めの症状のみで、減薬に至れました。とはいっても不愉快な感覚ですので、私の場合は市民プールでの水中ウォーキングと水泳、湯船につかる、というのが本当に効果てきめんでした。

減薬を誰よりも初めに助言してくれたのは、お付き合いさせていただいている彼氏ですが、具体的な行い方は自分で判断いたしました。

病気が再発したような状態悪化は、2年弱ほどかかりました期間中、1度あったのみです。現れたのは自己破壊衝動です。

そして、一人暮らしのため、そのなんとも言えない感情を受け止めてくれたのは学生時代からの同性の大親友たちでした。」


発達特性に気づき、それに沿って対処する

ようこさんからの文章を読むと、私はなんだかとても心地よいものを感じるのだが、こうした特徴的な文章を書くようこさんに、自身の発達特性をどう受け止めているのかと聞いてみた。彼女はこんなふうに答えてくれた。

「発達障害……障害というのは、これはさておきですね、「発達特性」「個性」「心のあり方」といってもいいと思うのですが、多かれ少なかれ持ち合わせている可能性が高いとは思います。

具体的には、私自身の感覚、感受性というか物事の受け止め方が、どうも世間大多数の同世代の女性のものより、悪く言えば幼く拙いこと。よく言えば、真っ直ぐすぎるような部分があることを多少自覚しています。

私自身、ペース配分のへたくそ加減、持続力のムラ(得意で好きなことは際限がない。苦手、嫌いな事には持続力ゼロ)。

7割や8割で仕事や事象に向かうことが、そもそも意味不明。(全力でいくか、まったくいかないか。)

疲労を感じにくい身体なのに、ストレスへの脆弱性がある、という笠先生のご説明には、本当に、なるほど! と思いました。


 今思うことは、周囲の理解なくしては、完治や寛解、社会復帰はできても、それを維持することはたいへん困難だということです。

周囲のご理解を得るために自身で客観的に、行ってほしい配慮を見つけること、またそれを周囲の方にわかりやすく提示すること。

周囲の方の言動の意図が理解できないときは、「わからない」と伝えること。

また投薬や主治医からのさまざまな情報を、自身の意図なく盲目的に信じ過ぎたり、偏った意見のみ吸収すること、この2点は厳禁だと思います。

そして、私の場合ですが、まず、環境の整備(年金や生活保護……ありがたいですね……)と環境の変化(両親の面影がちらつく土地から引っ越しで思い切って離れました)、苦痛に感じる人間関係、大事にしたい素敵な人間関係、どちらでもない人間関係をそれぞれ書きだして、思い切って淘汰すること。(引っ越しを機に連絡先を変える。変えた情報を伝える方を吟味する。)

食生活の見直し、良質な睡眠を得るための工夫(アロマや入浴法)、軽いストレッチから始めた運動を取り入れること。

これらを行った後に減薬に踏み切ったことが効果を生んでいると思ってます。

問題は、そもそも自身の感じ方の特性による「生きづらさ」――これは診断名を問わず私自身にいえること――に起因しているさまざまな事だと思いましたので、処世術と申しますか、見習いたいと思える方々の考え方を参考にさせて頂いたり、忘れるトレーニングというか、パソコンなり携帯のメモアプリなり、ノートなりに吐き出し、数時間後に見直す。自分自身のことですが、客観的に感じたアドバイスなどを書き込む。優先順位をつけて1個でも改善案を実行してみる。日を改めての考察とか、完治したい!という想いがそうさせたのですかね。そのような振り返りが功を奏したように思います。

あとは、なるべくおもしろおかしく、笑いますよね!

笑う。かなり大事です!

沢山あるな……。感謝発見ごっことかも、すごく救われました。

確かに時間や年数、人々や、物やら、お金やら、亡くしたもの失くしたものの方が多いですが、このように笠先生やかこさま、かこさまのブログの読者の皆様など、こうならなければ得る事のなかったものだってあるので、そのことへの感謝と、こんな私に変わらず寄り添ってくださる友人たちに感謝です。

そのほうが量は少なくとも、私にとってはかけがえのない財産で宝だと思ってます。」


いま、ようこさんは、年金プラス生活保護で生活をしているが、来年4月に障害者手帳の更新があるので、それまでには就職をして、生活を安定させて、自立した生活を送るのが目標である。

念願だった音楽で身を立てること――一時期はライブ活動やレコーディングもして、それなりに食べられるときもあったが――今はそれをあきらめ、ベースは「趣味」になっている。

「私にとっては、ベースを趣味にするというのは、本当にたいへんな出来事でした。あり得ないというか。でも、そういう経験をしているので、35年間生きてきた自分を、いい意味で、捨てることもできるような気がします。今までこうだったから……ということにこだわらなければ、ずっとやりやすくなると思うんです」