地震のことを話題にしていた、というだけで、あとからそこに予感とか予知とかの「意味」をつけたくなる。これもまた刷込なんだけどね。

 

もう、情報になんらかの(わからないけれども、みたいな)価値をつけることが偉い、という社会とかコミュニティに晒されて生きてきた人間であれば、仕方がない「反応」のひとつ。でも、そういうもんだよなあ、と淡々と呟いて、あとはもう次。観察だけして、言葉にして、あとは次のイマココ。

 

というようなことを書こうと思って久しぶりにこのブログを開いたわけでもないのだけれど、自分が何を書くか決めてから書くというよりは、出てきた言葉で自分の意識をそっと、さりげなくデザインする。

 

それでいいんじゃないかな。とりあえず。

 

で、10年前の、震災直後だとね。あれはおそらく、津波があったせいだろうけど、被災の度合いが地方によって違えども、ともかく痛みや不安・恐怖がビビットで生々しくて。私がTwitterとFBのアカウントをとったのは、あの年の秋口。(どうでもいいけどLINEはいまだにほぼ使えていない。)

 

だから、ネットが(スマホで)つながらない、声が発信できない、助けて欲しい人の声が届かない、相互140字でのやりとりができない、という悲鳴を知っても、かなりの温度差を感じた……気がする。フェミニズム系のSFで「接続された女」とか「サイボーグフェミニズム」とか、読んではいたけど、私自身はあのころ、まだ「どことも接続されない生き方」を選んでいた、というのもあったかもしれない。

 

あの頃。

前年くらいまで、数カ所でブログをやっていて、そのうちのひとつが毒舌ガス抜きと仕事の連絡掲示板を兼ねていて、ところが、そこにプライベートをもちこんだ、ちょっとしんどいつながりがまじってきて、ブログを書くことがもはや楽しくもなく、どこまで自分の素でいるべきなのか、仕事がらみの情報はもれなく同業者のチェックの対象となってしまったこともしんどくなってきた。

 

で、なしくずしにブログから遠ざかっていた。

でも、ブログ以上に当時の私にとって「タレナガシ」にみえたメディアはね。手を出すメリットがなんなんだか、よくわからなかった。

 

とくに、若い世代が盛り上がるSNS(アメリカではおもにTwitterをさして)を「自己愛」「承認欲求」のメディアである、とするカテゴリー感覚が一般的になってからはね。同世代の学者系(大学の先生とか)の知人は、ブログやSNSといった、特定ないし不特定多数の人の目にさらすテクストよりは、自分のためのメモということで、Evernoteといったような、クラウド上のノートになんでもぶちこんでおくのが好みだ、という声が多かった。

 

京大カードみたいな感覚だったんだろうかね。

2011年の秋口にアカウントをとって、まずはFBで、そして二年ほどまえからはTwitterで私がポストしてきた「つれづれ」の日録は、それに近いような気がする。

 

この十年で、SNSでのリテラシーはだいぶ成熟してきた……たぶん。同時に書いておきたかったのが、土曜日だったか。そう、地震があったあの日の午後、久しぶりにリアルの駅前書店に足を踏み入れて、製本された本の「ビジュアル」こそが、書物という「情報」という絵画の額縁のようなものではないか、と。

 

わたしはやはり、書物は「額縁があってこそ」のものであり、その文化はまだ終わったわけではない、というようなことを強く感じた。だからどう、ということはここには書かない。「起承転結」の結びの部分がわかりやすく提示されているものが、ネット上のブログというものなのではないか、という感覚もある。額縁がない情報、というのが、ネット上でのテキストであり、世界中の「電話での声のやりとり」という膨大な海のナマ情報、ということなんだろうね。

 

情報をデザインして、整理して、そこに深さや陰翳を与えるのが書物であり、活字文化(写真とか印刷とかも包括)なんだろう。地震の話から大きくずれたような、流れが出てきただけ、というような。

 

つれづれ。