すみません、このところブログ書く中身がとっちらかっております。
単に「あ、これ!」というかね。いま書きとめておかないと、あとでさらに収拾がつかなくなって(=しんどくて)面倒くさくなるからさー、というココロの声に押されてメモっております。

 

ここ数日、じっとしてると精神状態がざわざわしてね。

まえみたく、外を移動しているときでも、ふと立ち止まって「のしかかってくる重圧」に耐えるというような、そういう切ない澱みとか「バランス崩壊」「なんか出てくる」感じともちょっと違う。

 

自分の不穏なエネルギーをまぎらわしてくれたり、受けとめてくれる相手がいれば、たぶんすぐにでもマシになるような、そういう混乱ね。久しく消えていた「生きるエネルギー」そのものを抑圧しようとするような、そういう気鬱とか、思ってもいないのに死にたいとか。何かに言わされているような、そういう「混線」にもちょっと似てる。

 

石(クオーツとか水晶系)を握っていると楽になる。

もう寝てしまうしかないかな、とも。

そうすると、ありがたくも「いったん強制リセット」かかるからね。

 

そんな夜、飼ってる仔犬が段差を無造作に降りようとして、ころん!と前肢こけました。

瞬間的に痛そうにしていて、たぶん捻挫? まさか骨折!!

 

と青くなりました。傍若無人にパワフルなちび助でして、怪我したとしても、おそらく自分で「どう反応するのが正しいか」とか、まだ全然わかっていない。ましてや、飼い主とのコミュニケーションも、まだまだ赤ちゃん。

 

それでも、見ているとどうも前肢が痛そう……な気がする。

何もなかったかのように、けっこうぴょんぴょんと跳ねたり、走りまわってはいるんだけど、立ちあがるときに、一瞬、ためらいのようなものがある……ような。

 

前肢がねじれてるというか、うまくハマっていない感じがあったので、夜中だったけれども電話をとって獣医さんに連絡!と、呼び出し音が鳴っているとき、まったく普通のピンピンとした歩様でワンコが足元まで近づいてきました。

 

うーん。ちょっとは痛めたか、それよりも「びっくり」したほうが強かったのか。

 

ということで、電話を置いて、室内の段差(ソファに乗りやすいように箱を設置していた)をすべて取っ払い、しばらくはソファもベッドも「わんこ禁止令」。

 

一夜明けてみて、ふと思いました。

私の精神状態がしんどかったのも、同居人が体調崩したのも、わんこが怪我(怪我未満であったにせよ)しそうになったのも、そこから「何か気づけ」のサインなんだろなって。

 

私はわりと細かいことを「気にしぃ」なタチですが、基本的には親のシツケがかっきーん!と入っているので、何かよそのことが気になるときは、たいてい「それもこれも、おまえ(自分)が悪い」と、責任を自分に求める思考のクセが発動します。だから今回も、精神の澱みが「どこ発信」なのかはわからないくせに、ともかく「それもこれも、おまえが悪い」「勝手に落ちこんでいるおまえのようなヤツは、生きてる価値もない」と、ホップステップジャンプの、途中経過がすべて抜けていきなり最期のジャンプ!へと、自分に自分でストレスかけていたフシもある。

 

で、仕事先で「本来ワタシの業務担当」ではない部分で、ものすごいストレスかけられて、京都駅で財布の中身を駅の階段にぶちまけてしまったこととか、実家の片付けで車に乗りきるぎりぎりの量のビニール袋をリサイクルに持っていくときに感情の発作に襲われそうになったこととか、ちょっと精神状態イマイチなときに包丁をにぎって指を切り落としそうになったこととか。

 

いろんな出来事を「この世に偶然は存在しない(←これはワタシのピアノ師匠の言葉)」とかボヤきながらリンクさせる。それって本来のワタシの流儀ではないかも……だけれど、それでも今回は何かを読みとってみるほうが、きっとオノレの生き方そのものについて、納得する。腑に落ちるだろうという気がしてしょうがない。

 

まず、仕事の関係で「本来はヒトゴト」であるはずのことがいちいち気になる。これは、そんなことを気にする自分の「度量のなさ」がみじめで、落ちこんだ。けど、いまこの瞬間の私の場合、気になるのは私……という主語がひっくり返る。表と裏がつながっているからこそ、そこのところは「ああ、気にしてるんだな(自分)」「ああ、気にされてるんだな(これも実は自分)」と、そういうエネルギーの流れを認知して、ありがたいなあって。両手で拝んで(笑)、自己観察は終了。そこから学べるモノは、いまはもうこれでおしまい。

 

ワンコの怪我(未満)も、自分の包丁での怪我も、家族の心身の澱みも、いまここできちんと体験して、次の新しい一日を迎えればいい。たぶん、それだけのこと。

 

あえていうなら、こんなふうに文字に起こして「体験」することに、きっと明日の私は「大事な意味」を見ている。ここで、スピリチュアルとか波動(バイブレーション)や世界観を語る優れた話し手さんなら、きれいなオチをつけるんだろうね。

 

私のオチは、明日に持ち越し。

だって、私にとって「生きる」って、そういうことだもの。