牛車がテーマという珍しい本。図書館で偶然見つけて気になったので手に取ってみた。「唐車(からぐるま)はベンツ、檳榔毛車(びろうげのくるま)はクラウン、網代車(あじろぐるま)は私が乗っているアクアだ」と著者は、学生に対して牛車の車種の説明をしている。
 
 
 
 牛車は、平安時代が全盛期で、それ以降はだんだんすたれてしまい、中世では、公家の乗り物は牛車から輿(こし)へと変わったとある。著者も述べているように、応仁の乱(1467~1477)が公家文化の衰退する原因と説明されるが、14世紀ころから財政難ですたれてきたとある。
 
 
 
 最後に牛車に載った人物は、あの和宮で婚礼のため、江戸城に入る際、三両の牛車を連ねていたのが記録されているとある。
 
 
 
 意外な人物が牛車と深いかかわりがあり驚いた。その人物とは寛政の改革で有名な松平定信(1758~1829)だ。定信は「輿車図考(よしゃずこう)」という研究書を書いた。いろいろな人が協力して書いた共同研究書だ。いろいろな古典から輿や牛車に関する文書を抜き出して、部品名を分類して、さらに絵巻物などからヒントを得た復元図を付けたりしている。インターネットのない時代に昔の文献を探すだけでも苦労がしのばれる。
 
 
 
 牛車を乗ることが出来るのは、中流以上の貴族であり、ランク付けがあった。唐車は、天皇や皇后、摂政・関白が乗るものだった。檳榔毛車は、四位以上の位を持つ大臣や大納言、中納言が乗ることを許された。その次には、糸毛車で、中宮や東宮、女御が乗る車だった。最もよく乗られていたのが網代車だった。貴族が広く利用する車だった。
 
 
 
 中には身分違いにもかかわらずいい牛車に乗る傾奇者がいた。破る人に対して快く思わない人がいる。檳榔毛車に乗る規範がはっきりしていたかというと、あいまいで「忖度」が必要だった。一線を超えるには神経の太さがいるなあ。
 
 
 
 それでは、網代車に載っているからと言って身分の低い貴族だったかというとそうでもなかった。カメレオンのように偽装する必要があるときには、自分の身分を隠すためにあえてランクの低い車に乗ることがあった。その例としてイズミの式部にひそかに会いに行っていた敦道親王が「あやしき御車」に乗って出かけた。「あやしき車」について具体的な言及はないが、筆者は網代車に載っていったのではないかと推測している。
 
 
 
 もう一つの偽装は、性を偽るだ。三人の武士が賀茂祭の見物に馬に乗っては場違いだし、かといって顔を隠して歩くと見たいものが見られなくなるとして、牛車に乗ることにした。下簾(したすだれ)を落として女車に見せかけた。不運なことに三人とも慣れないので乗り物酔いにかかってしまった。
 

 
 「女車」であるもう一つ印として、簾の下から女性の衣の袖や裾をのぞかせることで、このことを出衣(いだしぎぬ)と呼んだ。そうなると頭がモヤモヤしてストーカー行為のようなことを行う人もいたそうだ。今も昔も男とは愚かな生き物よのうとふと思った。
 
 
 
 牛車にはルールがあり、乗り方として後ろ乗り、前降りなのも関わらず、それを知らずに残念な人になった有名人がいる。それは木曽義仲だ。平家を京から追い払って後白河上皇から官位をもらった。後白河上皇の御所に行くのに牛車に乗るが、ルールを知らなかったので面食らったそうだ。
 
 
 
 牛車はあのアニメ「おじゃる丸」に出てくるようにのんびりとしたスピードで進むものだと思っていたが、決め手があった。それは、牛飼童だった。
 
 
 
 ふと疑問がわいてきた。それは、外に行くときはいつも牛車に乗っていて、歩くことがなく運動不足だったのではないかということだ。と思ったら、意外なことに寺社参詣は徒歩で行ったそうだ。あえて願掛けのために行きは歩きで言ったと著者は述べている。
 
 
 
 牛車から当時の時代背景が浮き彫りになってくるのがわかり面白かった。馬車に関しては、著書も言及しているが、明治大学教授の鹿島茂が「馬車が買いたい!」(白水社、新装版は2009年)を出版している。