おはようございます晴れ

晴れているけれど、めっちゃ寒いショック

寒いけれど、今日も家族は元気よく笑顔で玄関を出てくれて、嬉しいかぎりです。

私は家事を済ませたら、ショッピングモールに行く予定。

先月購入したメガネの度数が合ってないので、直してもらう。

昨日は美容室で白髪を染めて、カットしてもらったニコ

スッキリ音符
 
少しずつ、引きこもり生活から脱していかねば、老けてしまう。






昨日は友と三人で、何時間もLINEでやりとり。

正直、お互い苦しい時間だった。

喧嘩したわけじゃないですよ。

子供のことに悩む彼女は、実は彼女自身の問題に向き合えていない。

それに直面化できるよう、もう随分長いこと話をして、それを何度も何度も繰り返してきた。

私も、もう一人の友も、自分の時間を何十時間も使って、直接やり取りしていない時間も、常に知恵を絞って、伝えて、動くまで声をおさえて待っていた。

でも、できない。

やろうとしているのも、伝わってこない。

できてないことに、気づけない。

なので、そこに対して深く掘りました。

どうか、自己をしっかり見つめ直し、子供の問題よりも自分の問題を解決できますように。

そして、うやむやにせず、新しい一歩を踏み出せますように。





私には、他にも気になるブロガーさんがいます。

とても頑張っていると思う。

真面目だと思うし、一つ一つ分析して、偉いなぁとか、私も勉強させてもらえるなぁと思うこともある。

でも、彼女は自分で気がついているように、人に構われたく無い、人に頼りたく無い、弱みを見せたら自分が負けだと、今も高い高い壁をもっているように見える。

それで、全て上手くいっているなら、問題を解決できるのなら、本人が満足しているなら、それで良いかなぁとも思うのですけれどもね。

ブログを読んでいて、このインサイドヘッドの映画を思い出したのです。


映画って、制作側の伝えたいことと、受け取る側の受け取ったことが、同じとは限らない。

私が、私なりに受け取ったことを書きたいと思う。

この映画の主人公「ライリー」は思春期真っ只中。

それに、親の都合での引っ越しなどが絡んで、戸惑いや悩みが出てくる。

頭の中(インサイドヘッド)で、ヨロコビ・カナシミ・イカリ・ビビリ・ムカムカなどの感情が、それぞれやり取りしていく。

最初は、大竹しのぶさんが声優を担当しているカナシミが、メソメソくよくよしていて、本当にイラついてくる。
こんな人いるよなぁニヤニヤて。

で、竹内結子さんが担当する、底抜けに明るいヨロコビが、カナシミを励まし、場の空気を明るくしようと必死に頑張る。
こんな人もいるよなぁニヤニヤと、思う。
(多分その時の私)

でね、最初はヨロコビを応援している私がいて、どんな風にカナシミを引き上げるんだろう?って、見ているんですよ私は。

ヨロコビも、ライリーのために、本当に全力で自分を犠牲にしてでも、前向きに頑張るのです。

でも、ライリーの問題は解決できない。

それどころか、イカリ・ムカムカまで暴れ出し、拗れていくのです。

本人の苦しみが、親に反抗という形で変に伝わり、親子関係も、新しい学校での人間関係も、どんどん壊してしまう。


でもね、最後は本当に素敵な形で問題を解決できる。  

マイナスから元に戻るのではなくて、
次の煌めくステージにまで上がっていくキラキラ

何で解決できたかというと、ヨロコビがカナシミの存在をマイナスではなく、必要な存在だと認め、カナシミが心から悲しむことを促すのです。

心をカナシミ色に染めて、それを素直に言葉で表現し、涙を流す。

そうすると、周りの人(この映画では親)が
「この子は、悲しんでいるんだ。そうだったんだ。自分達の行動は、この子に対してどんな影響を与えていたんだろう。自分はこの子の為に何ができるんだろう。」
て、変化していくんですよね。

カナシミの役割は、きっとコレなんですよね。

変に耐えたり、カナシミを抑え込んだり、ヨロコビやイカリに転換してしまうと、

周りの人がカナシミの存在にきがつけず、

周りの人の成長をストップさせてしまう。

人間関係も親子関係も、相互作用で成り立つのでね。
一方通行ではないのですよね。

ヨロコビが頑張れば頑張るほど、周りの人が自分で考えたり成長するチャンスを奪ってしまい、
問題が解決できないのです。


生きていれば、次々と問題は発生します。

それは、家族がいれば家族の数だけ、自分にも降りかかってくる。

自分以外の人の問題は課題の分離だ!とか、そんな風に思っても、やっぱり家族なので、家族システム論から考えても、そうはいかない部分も多いのです。

でね、その問題に対して、ヨロコビみたいに一人で問題解決方法を考えて、耐えて、カナシミの存在を否定して頑張ってもね、解決できないんですよ。

それどころか、状況は悪化してくる。

ヨロコビの勢いに、他の人や、自分の中の他の感情が、息を潜めてしまって、周りがヨロコビだけに頼ってしまって、空回りばかり。

解決しているようで、引いてよく見てみたら、マイナスからゼロにはなれたようには見えるけれど、プラスに行かない。

脱することができない。

問題は解決できてないのです。

何故かというと、一人で問題を解決しようとしているから。
 
自己完結。

カナシミの感情をしっかりと使って、周りに頼ったり、人の意見を受け入れたり、そう言うことができないから。

一人の力でできる仕事て、限られています。

規模が小さい。

やっぱり、笑顔でエネルギーに満ち溢れた家庭を作ろうと思ったら、一人の力では限界があるんですよ。

何もできなさそうな、弱っている人にもチカラはある。

その人に何かしてあげるだけではなくて、その人のチカラを信じて、逆に小さなことで色々と助けてもらう。

それが、実は弱っている人の自信にもなる。

何かをいつもしてもらうだけの存在では、劣等感しか生まれないでしょ?

また、家族の問題を家族だけで解決しようとしても、それは難しい。

助けてくれないのではなく、自分で解決できると虚勢を張るから助けてもらえないのだ。

他人のチカラも取り入れる能力のある人て、ものすごい勢いでプラスに向かえる。

仕事でもそうです。

自分の問題を、いつまでも〇〇のせいでと言い続けるのって、結局は自分もその〇〇と同じ土俵に立ったままで、すでに年老いている相手に一人相撲状態なのかな?て。

私にも困った母がいます。

だけど、母には母の生きてきた人生からの主観があって、母は母で苦労したと訴えています。

それは、私から見たものとは違うけれど、母からみた真実なんですよ。

母は母で、自分の特性や病気を持った上で、一生懸命生きてきたのだと思う。

今とは時代も、普通も違うから、私の想像したものよりも、苦労したと感じている可能性もある。

私は自分が子供の時に困ったことが多かったけれど、それはこっち側から見た、感じたことであって、母は母で凄く困っていたのだと思う。



結局大人は、自分がどう生きるかなんですよね。

人のせいにせず。

自分がどれだけ色んな考えを受け入れられるか。

自分を知ることができるか。

どう動くか。

どう、自分を変化させていけるか。


発達は子供だけのものではない。

死ぬまで人は発達していきます。

私も、今後まだまだ変化すると思う。

困ったことがあれば、自分で問題を解決できるよう頑張るけれど、やっぱりカナシミも表出しながら、家族や友達にも助けてもらいたいなって思う。

人は、人から自分のことを言われると
カチンときます。

頼んでもいないのに、「直面化」させられて。

私も親友や姉に、ガツンとやられてました。

凹むし、苛つくし。

が、結局その人からみた私は、そうなのであって、私の気付かない私なんですよね。

というか、わかっているけど今は受け入れられない自分。

そして、今でもその時の自分の状況を思い出すと、「しゃーないやん。それ以上できひん。」のですがね、

長い時間をかけて、人から指摘されたことを徐々に受け入れて今に至り、おかげさまで幸せだなぁーと思う毎日にたどり着いております。



直接メッセージは送らない。

受け取る側が、どう受け取るか。

うざ!と、スルーもよし。
そんなこと、わかってる!もよし。

心を守るためにはそれも必要。

ただ、

悲しい時にバリアを張らず、カナシミを表現できるようになれば、本当は苦しい今よりも、心から幸せと感じる日々に辿り着けると思うから。

そう思っています。