ミイ子「この前、結婚してタワマンに住んでる中学の同級生の話したでしょ?その子に、同窓会で久しぶりに会ったの。」
マリカ「ああ、あの子ね。インスタフィルター勝ち組の。」
ミイ子「そう。彼女、旦那さんにめちゃくちゃ大事にされてるの。毎朝『今日も可愛いね』って言いながら、カプチーノ入れてくれるんだって!休日はご飯も作ってくれるし。」
マリカ「その旦那、もはや人間じゃなくて、優しさ製造マシンね。うちの炊飯器より機能的だわ。」
ミイ子「ね、すごいよね。でもさ、話してるうちに『なのになんで毎日虚しいんだろう』って…急にため息ついちゃってさ。」
マリカ「へぇ。完璧な絵に見えても、キャンバスの裏は真っ黒ってこともあるのね。」
ミイ子「過去に、急に手のひら返してきた彼氏がいて、それがトラウマで、今でも誰かの好意を素直に信じられないんだって。」
マリカ「つまり、今目の前にある愛がどんなにあたたかくても、“また失うかも”って恐怖がフィルターかけちゃうのね。カプチーノの泡が、全部冷めて見えるやつ。」
ミイ子「うん…。でも、“愛されてても、満たされない”って感覚、なんかわかる気もして…ちょっと怖かった。」
マリカ「それって、結局“愛されること”がゴールになってる状態なのよ。誰かがくれないと、私は愛を感じられないっていう依存モード。」
ミイ子「じゃあ、どうすれば満たされるんだろう?」
マリカ「シンプルよ。自分が愛を注ぐ側になること。本当の愛って、どこかから注がれるものじゃなくて、私たちを通じて世界に流れていくものよ。」
ミイ子「え、それすごく素敵な言い方!」
マリカ「ほんとよ。例えば、朝、我が子におにぎり握るとか、寒い夜に猫に毛布かけてあげるとか。そういうの全部が、愛の行為。大げさじゃなく、愛は日常のど真ん中にあるの。」
ミイ子「そっか…それって、もらう愛じゃなくて、自分から流れていく愛なんだね。」
マリカ「そう。で、面白いのはね、自分が愛を流してるときって、不思議と心が満たされるのよ。『あ、私ってこんなにも与えられる存在だったんだ』って、気づく瞬間がある。」
ミイ子「わかるかも。私さ、こないだ会社の後輩が元気なさそうだったから、朝コンビニでその子が好きそうなお菓子買って、こっそりデスクに置いといたの。そしたら、『誰ですか~これ?』って朝からニコニコしてて。なんかそれだけで一日中心ぽかぽかになった。」
マリカ「それよ。それが“愛が流れた”ってこと。大げさじゃなく、そういう一滴が世界の流れを変えてるのよ。舞台も観客もいらない、静かな愛の現場ね。」
ミイ子「タワマンの友達も、旦那さんの優しさを疑う前に、自分の中の愛と繋がる方法を見つけられればいいな。」
マリカ「そのためには、愛されてるかを確認するんじゃなくて、今、自分がどれくらい相手に愛を注いでいるかを問いかけることよ。」
ミイ子「愛は与えてなんぼってことね。なんか、今日の話、すごく沁みた。」
マリカ「沁みてるときが、人生が動くときよ。人間、水分と愛でできてるんだから。」
私たちはつい、「誰かに愛されれば、この虚しさが消える」と信じてしまいます。
けれど、外から注がれる愛だけでは、心の奥にある不安や過去の傷を本当には癒すことはできません。愛されることを求めるあまり、かえって「足りない」「失うかも」といった恐れが膨らみ、心はますます空虚になっていきます。
でも本当の愛は、自分の内側から湧き出るもの。愛は、私たちを通してこの世界に流れ込む力であり、それは日常のささやかな行為、誰かのためにそっと何かをする、小さな優しさの中にこそ宿っています。
誰かに愛されようとする前に、自分の中にすでにある愛に気づくこと。そして、それを与えることこそが、虚しさを癒し、人生をあたたかく満たすいちばん確かな方法なのかもしれません。
