ミイ子「ねえマリカ、今日、右京さん復帰してたね。後頭部打って重傷って聞いてたから、こんな早く復帰するなんてびっくり!」
マリカ「そうね。まるで"人生、足元から崩れる"って言葉を体現したような転倒劇ね。」
ミイ子「やめてよ〜! 不謹慎すぎ! でもほんと、頭打ったのに大事に至らなかったのは奇跡だよ。しかも、右京さん、復帰初日だからか妙にウルウルしててさ…。」
マリカ「生きて帰ってこられた喜びってやつかしらね。気づいちゃったのよ、人生の重みってやつに。」
ミイ子「うんうん。なんかもう、オフィスの植木にまで話しかけてたよ。『君たち、こんなに緑だったのか…』って。」
マリカ「それ、植物にも戸惑いを与えるやつね。」
ミイ子「でも分かる気がする。私も前にインフルで倒れた時、健康ってすごい贅沢だな〜って思ったもん。」
マリカ「人は、大事なものほど空気みたいに扱うものよ。呼吸できることをいちいちありがたいなんて思わない。でも、息が止まりそうになった時に、初めてその価値を知る。」
ミイ子「それそれ! まさにそれ! あとね、右京さんがしみじみ言ってたの。『朝、目が覚めて、天井が見えることが、あんなに幸せだなんて知らなかったんだ』って…。」
マリカ「ほら出た、“最初の朝”理論。」
ミイ子「え?最初の朝?」
マリカ「ええ、誰かが言ってたわ。『人生を最後の日のように生きるのではなく、最初の日のように生きてみよう』って。」
ミイ子「その言葉、グッとくる。最後の日だと、なんか焦るもんね。 でも最初の日だと、もっとこう…ワクワクするっていうか。」
マリカ「終わりを恐れて駆け抜けるより、始まりにときめいて立ち止まる方が、豊かかもしれないって感じかしら。」
ミイ子「それに毎日人生最後の日だったら、毎日アイスクリームたらふく食べるだけの生活になっちゃうもんね。最初の朝だったら、見るもの全部が新鮮に見えるよね。壁のシミさえ愛おしい。」
マリカ「それはちょっと病んでる。」
ミイ子「いやでもマジで、何もかも当たり前になっちゃうのって怖くない? 仕事も、人間関係も、健康も。“ある”ことに慣れちゃって、感謝どころか、文句ばっか言ってさ。」
マリカ「失う可能性が生きることを輝かせるってことよ。逆説的だけど、暗い夜があるからこそ、朝日が美しく見える。」
ミイ子「ってことはさ、何かが崩れそうな時って、チャンスなの?」
マリカ「そうね。転んだあとの世界は、違って見えるもの。痛みを知った分だけ、優しくなれる。」
ミイ子「右京さんも変わったしね。前みたいに部下を数字でしか見てない感が薄れてさ。『みんな、無理しないでね』って、前じゃ考えられない労わりの言葉。」
マリカ「頭を打って、心が開いたのかもしれないわね。」
ミイ子「いや〜、人生って本当に不思議。もしかしたら、明日この日常がガラッと変わるかもしれないんだよね。」
マリカ「だからこそ、今日という一日を、“人生最初の朝”として迎える価値があるのよ。」
ミイ子「 なんか、今ならコーヒーの香りも10倍深く感じる気がする〜!」
マリカ「ついでに残りの資料、10倍のスピードで仕上げたら、右京さんの頭も痛まずに済むんじゃない?」
ミイ子「あっ、それは無理。」
私たちはつい、頭の中で物事を整理しようとしすぎてしまいます。
不安を分析し、恐れを言語化し、感情を考えすぎるあまり、本当の「感じること」を忘れてしまう。
でも、心を落ち着けて、“今”という瞬間に身を委ねると、
そこには驚くほど豊かな世界が広がっています。
事故や病気など、人生を揺さぶる出来事は、そんな当たり前をもう一度“最初の朝”のように見せてくれるチャンスなのかもしれません。
今ここにある命の感覚。小さな喜び、つながり、呼吸できることのありがたさ。
それは、頭の中をぐるぐる駆け巡る思考では決してたどり着けない生の核心です。
