シン・ゴジラ(2016 日本)

総監督/脚本/編集:庵野秀明

監督/特技監督:樋口真嗣

准監督/特技統括:尾上克郎

製作:市川南

製作総指揮:山内章弘

撮影:山田康介

音楽:鷺巣詩郎、伊福部昭

出演:長谷川博己、竹野内豊、石原さとみ、高良健吾、市川実日子、高橋一生、津田寛治、余貴美子、松尾諭、塚本晋也、國村隼、平泉成、柄本明、大杉漣

①「オルソ」上映の経緯について

「ゴジラ-1.0」公開を前にして行われた「山崎貴セレクション ゴジラ上映会」にて、「シン・ゴジラ」のモノクロ版「シン・ゴジラ:オルソ」が上映されました。

上映前に行われた山崎貴監督庵野秀明監督のトークショーによれば、「モノクロ版なら上映してもいいよと庵野監督が言った(by山﨑監督)」「そんな偉そうなことは言わない。どうせならモノクロ版はどうですか、という提案(by庵野監督)」みたいな感じらしいです。

 

庵野監督によれば、スタッフと話していて「モノクロ版どうだろう」という話になって。

スタッフがモノクロにしてみてくれたのを観たところ、「思いのほか良かった」。

それで、樋口真嗣監督、尾上克郎准監督による監修で、モノクロ版が制作。

今回の上映についても「ブルーレイ上映でいいだろう」と庵野監督は思ってたようですが、東宝さんの粋な計らいで「東京現像所の最後の仕事になった」そうです。

 

「オルソ」とは、モノクロフィルムの中の一種で「オルソクロマチックフィルム」のこと。

一般的に使われるモノクロフィルム「パンクロマチックフィルム」に比べて「赤系統の色が感光されない」「フェイストーンが重くなる」という特徴を持つそうです。

見た感じ、非常に黒が印象的な。重量感のある、奥行きを感じるモノクロ映像になっていたと思います。

 

トークショーで山崎貴監督が「全然別物になってる」「怖い。特に夜のゴジラが怖い」という言い方をしていたのですが。

確かに! カラーの「シン・ゴジラ」とは別物だと思いました。

本当に、別の映画を観ているような。そして怖さが増している!

「怖いゴジラ」を堪能したい人には、「オルソ」は絶対外せないと強く思います。

 

②煩雑さを通して描く日本社会のリアリティ

今回映画館で久々に観てあらためて感じたのは、「シン・ゴジラ」の特異な構成の独自性。

ドキュメンタリー・タッチなんですよね。実録調。

冒頭から、「仕事現場の記録映像」のようなトーンで、ひたすら「事実を伝える」映像を重ねていく。

よくある「日常のドラマ」は一切撮らない

「仕事の現場」「ゴジラと対峙する最前線」だけを撮っていく。

 

「一般的な映画にはよくあるけれど、本作にはないシーン」を想起してみると、本作の特異性がよくわかります。

例えば登場人物が家にいてベッドで眠っていて、電話がかかってきて起こされ、非常事態を知らされて、家族を家に残して慌てて出かけていく、とか。

「忙しい人」を表すにしても上のような表現をやりがちだけど、そういうのは一切ない。家庭は描写しない。「仕事現場でのその人」しか描かない。

 

そして、仕事現場の描写は徹底して手を抜かない。完全に、ありのままのリアルな描写をしていきます。

手続きと段取りだらけの政府の会議の面倒臭さを、そのまんま描く。

そういうふうに決まっているから、それが慣習だから、今まさにゴジラが街をぶっ壊してる緊急事態にあってもちんたらと所定の手続きを踏んで会議をやってる。

自衛隊のヘリが一発の弾丸を撃つためにも、無数の手続きと承認と段取りが必要になる。

そのような煩雑さを(紋切り型の批判ではなく)事実として描いていきます。

 

登場人物の安易な主観を廃して客観に徹したその積み重ねによって、ものすごく強固なリアリティが築かれていくんですよね。

そしてこのリアリティがあるからこそ、海から上陸して街をぶっ壊すゴジラという最大級の虚構が、物語の中で浮いてしまわないバランスを保つのです。

これはまさに、公開時のコピーにあった「現実vs虚構」。ゴジラという最大級の虚構をリアルなストーリーとして成立させるためには、ここまでやらなければならないという庵野監督の的確な読みの結果ですね。

 

僕が「シン・ゴジラ」の公開時にめっちゃ興奮し、歴代ゴジラ映画の中でも「シン・ゴジラ」が明確に別格​であ​ると感じたのは、この「虚構の​扱い方」の巧妙さに尽きます。

やはり、ゴジラというキャラクターのリアリティは、昭和29年の解像度(人々の認識的にも、純粋に映像解像度の上でも)であればこそ成立していたものであって。

それをそのまま現代に当て嵌めても、同じバランスは成立しない。(だからこそ歴代のゴジラ映画はリアリティという面では討ち死にし、違う局面で勝負しなければならなかった。)

 

徹底して「個人的なドラマ」を排除し、日本社会を「事務的・官僚的・煩雑で無駄の多い面倒臭いシステムの総体」と捉えることで、実に的確に日本のリアルを構築してしまったこの手腕。

そこまでのリアルを構築してやっと、ゴジラ級の巨大な虚構を落とし込むことができる。

通常の映画のセオリーを全部ぶっ飛ばしているのでね。すごい勇気のいることだと思います。その途轍もない勇気に心底感服します。

 

今回のオルソでは、モノクロになることでドキュメンタリー・タッチが更に際立って、より強調されることになっていますね。

ある意味で「あえて解像度を​下げている」とも言えるわけで。現代日本にゴジラを置く現実と虚構のバランスは、より強固になっていると思います。

③特撮の「お約束」が導く黙示録的世界観

トークショーで面白かったのは、山﨑監督が自身の映画を「VFX」と表現し、「スター・ウォーズ」に影響を受けたと語ったのに対して、庵野監督は「ああやっぱり全然違うわ」と二人の間に壁を描いてみせたところ。

庵野監督は「僕のは特撮だから」ときっぱり言っていて。

「でもシン・ゴジラもCGだったじゃないですか」という山﨑監督に対して、「目指したのは着ぐるみだから」と断言していました。

だから、細かい表情も一切つけなかった。

 

シン・ゴジラの無表情は「特撮だから、着ぐるみだから」と庵野監督は言うのだけど、でも一方で「現実vs虚構」のバランスから導き出されたものでもあったんじゃないかな…という気がします。

実際問題として、あのサイズで、ビルを壊す強度を持っていて、最新鋭の兵器で攻撃しても傷一つつかない「生き物」というのはリアリティ的に成り立たないわけで。

「神」であったり、あるいは「生物兵器」的な「通常の生命を超えた存在」としてゴジラを捉えている、そこも大きな「スタート地点の違い」ではないでしょうか。

 

怪獣映画で、防衛隊がミサイルばんばん撃って、でも怪獣の体のあちこちで「弾着」がばんばん破裂するばかりでダメージ一つ受けない…という表現を我々は幼少時から「当たり前のもの」として刷り込まれてしまっているのだけれど。

そういう「お約束」をそれで済まさないのが、やはり庵野監督の凄みだと思うんですよね。オタクであればこそ、「それはそういうもん」で済ませてしまいがちなのだけど。

「シン・ウルトラマン」でも「なぜ攻撃が効かないのか」はこだわり抜かれていましたね。

 

むしろ「お約束」で済ませず、原理にまで思いが及ぶほどに、特撮の見方が真剣だったとも言える。

特撮映画での「お約束」の描写をまともに受け取るなら、怪獣は通常の生物ではない、超越的な存在であるということに必然的になっていくわけで。

だからこその「無表情」だし、「単独進化」していく設定にも、ぜんぶつながっていく。

 

シン・ゴジラにおける「神のような存在が超越的な力で、人類の文明を終わらせにかかってくる」という強烈な怖さ、黙示録的な恐ろしさというのは、「巨神兵東京に現る」とか「エヴァ」とかにも通じるもので、庵野監督の世界でもあるのだけど。

でも逆に考えると、特撮映画での表現を素直に受け取った場合に、素直に想起される世界観なんじゃないか…という気もしてきます。

④絶望的な怖さがオルソで更に…!

「シン・ゴジラ」公開時に、心から「すごい」と思ったのは、中盤のクライマックスと言える東京炎上シーンです。

あれ、観ていて本当に「怖い」と思ったし、同時になんか​強烈に「悲しい」と感じたんですよね。

「ああ、あのよく知った街である東京が、焼き尽くされていく…」という強烈な喪失感。

その悲しみを感じて、思わず泣きそうになってしまうのです。何度観ても。

 

怪獣映画で街が怪獣に壊されるのは定番のシーンで、普通はそれでカタルシスを感じることはあっても、別に「怖い」とか「悲しい」とか感じません。

地元の街なら、むしろ「知ってるビルが壊されて嬉しい」とか思ったりするくらい。

でも、例外的に「怖さ」「悲しみ」を感じさせるのが二つだけあって。それが「初代ゴジラ」「シン・ゴジラ」なのです。

 

「初代ゴジラ」の、夜の東京炎上シーン。

国会議事堂が壊され、街が炎に包まれていく。

取り残された母親と子供たちは「もうすぐお父ちゃまのところへ行くのよ」と嘆き。

テレビ中継するアナウンサーは、「皆さん、さようなら…」と言いながらテレビ塔ごと落ちていきます。

 

「初代ゴジラ」と「シン・ゴジラ」の共通点は、どちらも「その時の人々が実際に身近に感じていた恐怖が、投影されたシーンになっていること」だと思います。

「初代ゴジラ」の場合は、空襲ですね。1954年、終戦からまだ9年しか経っていない。

夜の街に突然襲来し、一方的に蹂躙し、容赦なく炎で焼き尽くしていくその破壊の有り様は、当時の人々の脳裏に色濃く残っていただろう空襲の恐怖そのものです。

「シン・ゴジラ」は、東日本大震災。2016年だから、震災から5年。「初代ゴジラ」の戦争からの年月より短い。

あの津波の映像や、原発事故の映像から感じた、取り返しのつかないことが今まさに起きているという「絶望感」「恐怖感」が、「シン・ゴジラ」が東京を焼き尽くすシーンには濃厚に感じられます。

 

どちらも、そのまんま描いているわけではないのだけど。込められたトーンが共通するのだと思うのです。

「怪獣映画のお約束」ではない、肌身に迫る災厄の恐怖。我々の記憶の深いところを刺激してくる。

そしてそれは、それぞれの時代に応じたやり方でしっかりと現実を積み上げ、確固としたリアリティを構築したからこそ到達する領域であるわけです。

 

どちらも「夜のシーン」であることは、やはりポイントだと思っていて。

「情報量の少なさ」は、恐怖という感情を駆り立てるにはやはり重要なファクターですね。

何もかも見えていては怖くない。見えないからこそ怖い。闇は想像力を刺激して、記憶の中の恐怖さえも呼び出してくれる装置です。

 

だから、「オルソ」はここでこそ最大限の効果を発揮しています。

本当に怖い。怖さ何倍かマシマシになってます。

闇が濃厚で、その闇の中にゴジラのシルエットが立っていて。東京の街の明かりも消えて闇に包まれ、放たれる光はゴジラが放つ放射火炎の光のみ。

闇の中で光る、光こそが絶望であるという。

超絶的な名シーン。すさまじく良いです。

⑤ゴジラだけでなく、人間の描写も

本作では日常の人間ドラマが排除されていると書きましたが。

その上でなお、非常に熱い人間ドラマへ結実していくというのが、本作の驚くべきところです。

日常生活を描かない。家族も、恋人も、個人的な人間関係を描かない。

「家族愛」シーンも、ベタベタした「恋愛シーン」も、何もない。

描くのは、仕事の上でのその人の姿のみ。

それなのに、ものすごい濃厚な人間ドラマが確かにあって、それに感動させられてしまう。

 

画面上では、仕事の現場でそれぞれの担当職務に従事している姿しか描かれない。

でも、その一方ではゴジラが大破壊を繰り広げ、東京が取り返しのつかない破壊を受けていて。

登場人物たちの家族や友人も、きっと悲劇に巻き込まれている。

死んだり、家族を失ったり、取り返しのつかない悲劇が刻々と起こっている。それは伝わってくるわけです。

 

その中で、それだからこそ、今の自分にできることをやる。

それは、誰か一人がヒーローのように大活躍することではなくて。あくまでも大勢の中の一員として、一つの分野のプロとして、自分の職務を全うする。

そのコツコツ​とした集積が、巨大なゴジラに対抗する力になっていく。

 

これはまさしく、ハリウッドのスペクタクル映画に対抗する、日本ならではの作劇と言えますね。

たぶんハリウッド映画には思いもつかない。でも、圧倒的にリアルに裏打ちされた作劇。

前半のトーンから一貫して揺るぎないし。ハリウッド映画の真似ではない、自信を持って「日本映画」を作ろうとする、確信的な作り方になっている。

 

面白いのは「初代ゴジラ」の方がむしろ「個人のヒーロー」に向かうんですよね。芹沢博士の自己犠牲で解決するわけだから。「アルマゲドン」的な。

これは、昭和29年の方がむしろ、このような個人的ヒーローが世界を救うことがリアリティを持てたということかもしれない。

現代においては、大勢の無名の人々の頑張りこそが世界を救う力を持ち得る。

逆に言えば、現代ではもう古典的なヒーローに頼ることはできない。誰かが颯爽と現れて、自ら犠牲になって災厄を止めてくれたりはしない。

すべての人ひとりひとりが必死に頑張ることでしか、文明の終わりを止めることはできない…。

 

オルソではゴジラだけでなく、人間の描写も​魅力的でした。

白黒の画面に映し出される石原さとみが、市川実日子が、実に美しかった!ですよ。これも、オルソの見どころだと思います。

 

僕は今回「舞台挨拶中継付き」の上映で見て、満席だったのですが。

エンドクレジットでも誰一人帰らず、終了時には拍手が起こっていました。

7年前の映画で拍手ですよ。すごいことだと思います。客層は濃いファンばかりだったとは思うけど、それにしても濃いファンを納得させる「モノクロ版」だったということです。

「シン・ゴジラ」好きな人は、映画館で観られるチャンスは逃すべきじゃないです!