波紋(2023 日本)
監督/脚本:荻上直子
製作:杉田浩光、渡辺誠、米満一正
撮影:山本英夫
美術:安宅紀史
編集:普嶋信一
音楽:井出博子
出演:筒井真理子、光石研、磯村勇斗、安藤玉恵、江口のりこ、平岩紙、ムロツヨシ、柄本明、木野花、キムラ緑子
①不穏さに満ちた世界
夫と息子と3人で暮らしていた須藤依子(筒井真理子)。ある日突然夫・修(光石研)が失踪し、平穏な暮らしは崩壊。数年後、新興宗教に熱中しながら生きる依子の元に、修が帰ってきて癌だと告げます…。
「川っぺりムコリッタ」の荻上直子監督による不穏なホームドラマ。
「よこがお」の筒井真理子がダークサイドに堕ちていく主婦を静かに強靭に演じています。
「かもめ食堂」以来、割と「ゆるくて穏やかな」作風をイメージしていた荻上直子監督ですが、本作はかなり生々しい。
ユーモアの要素は薄く、不気味で怖い映画になっています。
テーマは、死生観。というのも「川っぺりムコリッタ」と共通するところだけれど。
本作の特に目立つテーマは、東日本大震災(というか原発事故)以降、コロナ禍を経て現在に至る現代という時代の、ある種の暗い空気感を映し出すこと…じゃないかと思いました。
②日常が崩壊する怖さ
本作の怖さは、日常が崩壊してしまう怖さ。
いろんなことが変わっても、これは変わらない…と思い込んでいることって、あるじゃないですか。
お父さんがいて、お母さんがいて、子供がいて、毎日仕事とか学校に出掛けて行って、外でなんやかんやあるにしても家は変わらずそこにあって、帰ってきてごはんを食べて、変わらない日々をそこで繰り返し過ごしていく。
そういう、あって当たり前の暮らし。すなわち日常。
職場で嫌なことがあったり、学校で嫌なことがあったり、生活に変化が起きて戸惑うことがあったとしても、日常は変わらずあり続ける。
安心したり、時には反発することもあるけれど、それにしても日常がいきなり消えてなくなったり、別のものに変わったりすることはない。
そう信じ込んで、誰もが日々を生きている。
でもそれは、別に何か根拠があることではないんですよね。
本作は東日本大震災後、原発事故で放射能への不安があって、関東を脱出する人もいる…というような背景から始まるのですが。
それが、まさしく「日常がある日突然いとも簡単に吹っ飛ぶ」ことを我々みんなに突きつけた、そんな出来事でしたね。
いつまでも変わらない退屈な日常なんて、実は一瞬で吹き飛ぶ脆弱なものでしかなかった。
そんなあやふやな、いつ崩れるかわからない土台の上に、私たちの日常は乗っかっているだけだった。
直接被災しなかったとしても、テレビ越しにそのことに気付かされ、多くの人がショックを受け、価値観を揺さぶられた…んじゃないかと思います。
修は庭の植木に水やりをしている時に、ふっと突然いなくなり、そのまま家からいなくなってしまう。
いて当たり前の存在だったお父さんが、いきなり消えてしまう。理由もわからずに。
それは一家の家計を担う人がいなくなって困る…という現実的なこと以上に、精神に強い不安を与えることだと思います。
いったい何が起こったのかわからない…誰が悪いのか悪くないのか、なぜそうなったのかも何もわからないままに、それまでの日常がすっ飛んでしまうという。
で、こういうことって、起きるのですよね。
理由のない失踪が象徴するのは、災害だったり、あるいは交通事故とか、病気とか、事件に巻き込まれるとか、突然降って湧いたように起こる理不尽な出来事。
そういうことが確率的に起こり得ることはわかってる。わかってるつもりだけど、それが自分の日常に起きるとは、まったく想像していない。実際に起きてみて初めて、わかる。そういうことがいつでも起こり得る世界に、自分が生きていたということが。
③宗教への逃避と、夫への殺意
そうやって、日常が揺さぶられる体験を、本作では「波紋」としてイメージしています。
平穏な日常を、外から掻き乱す波紋。
平穏を求める心を、ざわめかせ、崩してしまう波紋。
日常を掻き乱されてしまった依子にとって、なんとか平穏な「波紋のない日常」を取り繕うことが何よりの急務で、その受け皿になったのが彼女の場合、宗教でした。
明らかに胡散臭い宗教。「ただの水」を高い値段で買わせる、かなり悪徳そうな宗教…
なのだけど、この時点の依子にそんな拠り所でも必要だったことは伝わります。
宗教といえば水を売りますね。「星の子」の宗教も水売ってましたね。空気を売るよりは実体があるように見えて、もっとも原価の安いもの…なんでしょうね。
依子が完全に洗脳されてしまっているのか…といえばそれは微妙で。依子を見てると、人はそう簡単に洗脳なんてされないのかと思わされます。
完全に我を失ってしまってるわけではなく、現実から目を背けるために、むしろ自分で自分に「心から信じている」と言い聞かせているような状態。
そうでなければ、彼女の日常が持たないから。それ以外で波紋のない状態を保てないから。
宗教にハマるというのは、あるいは誰しもそういうものなのかもしれません。だからこそ、そこから脱け出すことが難しい。
そんなところに修がのこのこ帰ってきて、癌だから俺をいたわれと言う。
依子の日常を崩壊させておいて、いまだに回復できていない現状を見もせずに、前と同じようにふんぞり返り、当然のように飯を作らせ洗濯させ、世話を焼かせようとする…。
僕も男なのでね。修のこの「無自覚な無神経ぶり」には、チクチクと痛いものがありました。
依子の修への思いは、もはやはっきりとした「殺意」の域にまで達しているのだけど、修は気づかない。
なんかね、自分のことしか見えてないんですよね。
口では反省したようなことを言ったり、心配するようなことを言ったりするけど、実のところは自分しか見えてない。妻の気持ちも想像できない。
これは別に男に限った話じゃなくて、依子の側も「相手をわかろうとしない」のは同じであるとも言えるのだけど、違うのは修の方が社会的なシステムや慣習に守られていることで。
やはり立場は均等じゃない。女性が自然と受けていく抑圧と暴力が、あぶり出されていきます。
④差別とエゴの鬱々とした世界観
本作は依子の視点で展開していくので、依子に感情移入し、周囲の世界は彼女を抑圧するものとして描かれていくのだけれど。
息子が彼女を連れて帰ってきて、その娘が聾唖者で、結婚しようとしているに及んで、依子は見事に抑圧者の側に移ります。
パート仲間の水木(木野花)に「あんたストレートに差別するね」と言われるシーンでは笑いが起こっていたけど。
障害者への嫌悪を隠そうともしない依子の態度ははっきり言ってかなり不快。
一方で、聾唖者の彼女もしたたかにやり返すので、かわいそうな被害者というわけでもない。
結局のところ、家族と言っても互いのエゴのぶつかり合いで、誰が加害者で誰が被害者というわけでもない。
依子の味方だったはずの息子が、修と結託して依子を責め始めるに及んで、いよいよ日常なんてものはとっくに失われていて、もう戻らないのだと思い知らされてしまう。
いや、息子が「親父が出て行ったのは放射能じゃなく、母さんから逃げたのだ」と言うように、日常なんて始めからなかったのかもしれない。
そんなものは幻想で、ただ気づかないふりをずっとし続けていた…夫の失踪以後だけでなく、それ以前もずっとそうだったのかもしれない。
そんな「世界観」に至るんですよね、本作は。
かなり絶望的な世界観なんだけど。
これはしかし、震災と原発事故からこっちの、今の日本の社会のおおまかな気分を、かなり正確に表現しているような気がします。
コロナ禍。経済の低迷や、少子高齢化、国の衰退。なんだか物騒な、明るい材料のない世界の気分。
そんな気分が反映された、不穏な暗雲が立ちこめたような……それまで当たり前と信じていた「退屈な日常」さえ幻だったと気づいてしまった、鬱々とした世界観。
本作はだから、時代の気分をすごく鋭く切り取っていると思うのです。
ただ、そこからの出口は描いていない。何らかの「かりそめの(映画的な)回答」ですら、描いていない。
ただ、「そんな世界だよね」という事実を、ぽんと投げつけられたような。そんなシビアな映画なのだと思うのですよね。
⑤解放なのか、ファンタジーなのか
あるいは、その出口、突破口になったかもしれないのが、ラストシーン。
大雨の中、喪服姿の依子が家の前でずぶ濡れでフラメンコを踊る、唐突でシュールな1カットシーンです。
ここで描かれたのは、波紋を起こさないように、日常がまだ健在であるふりをし続けていた依子が、遂にそれをかなぐり捨てた…ということでしょうか。
波紋を起こすことを恐れない。
息を潜めて自分を偽るのではなく、自由になる。解き放たれる。
ただ…そのような解放感は、僕はこのシーンから感じることはできなかったんですよね。残念ながら。
なんか、すごく作為的で、作り物くさく見えて、白けてしまった…。
解放だけがファンタジーになってしまうというか。
地に足のついたリアルな形では、依子の解放は描かれないんだ…というような残念さを、ちょっと覚えてしまったのです。
そこはまあ、感じ方はいろいろとは思いますが。
ちょっと…いやかなり気になったのは…このシーン、大雨なのに明らかに晴れていること。
天気雨は意図的なのかな…。それでますます、ここがファンタジーに見えるんですよね。本物の雨の中で、泥にまみれになってこその解放じゃなかったかな。
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