これは「シン・仮面ライダー ネタバレ解説・考察4の続きです。

最後までネタバレしています。ご注意ください。

書いてあることはすべて独自解釈です。公式なものとは違っている可能性が大いにあります。

ルリ子の消失

ルリ子の死(というか消失)は、シン・エヴァンゲリオンにおけるアヤナミレイ(仮称)の消滅をもう一度描き直したものに見えます。

大切なものが消え去ること。

生きたいという強い思いが、叶えられないこと。

その反語としての、突然失われるかもしれない生を大事に生きること。

 

綾波レイは、それまでのエヴァでも何度も自己犠牲で消失してきたのだけれど。

シン・エヴァ以前は、自分の生に執着していなかったんですよね。「私が死んでも代わりはいるもの」だった。

それがシン・エヴァで、「もっと長く生きたかった。けれど叶わなかった」に変わった。それは震災という現実の大災害を経ての変化で、やはり庵野監督の考え方の変化を反映したものだと思うのですが。

本作もその同じ流れの上にあると言えるでしょう。

ルリ子の遺言

本郷が遺言を見る海岸は、千葉県木更津市の久津間海岸

遠浅の海に電柱が並ぶ不思議な風景です。潮干狩りスポットで、夕景の名所にもなっています。

海中電柱は、沖合いにあるアサリ密猟の監視小屋に電気を送るものなのだとか。

 

SHOCKERを足抜けした時、もっと早く消されると思ってたけど予想よりも長生きできた」とルリ子。

「足抜け」とか、ヤクザ映画の用語が不思議と時々出てくるのも庵野脚本の特徴でしょうか。シン・エヴァンゲリオンでの「カチコミ」とか。

ミサトの特攻とか本郷の自己犠牲とか、「ヤマト」の影響は当然あるだろうけど、往年のヤクザ映画の殴り込み精神もあるような気がします。「仁義なき戦い」ポスターの件も。

 

ルリ子は父と母、イチローが揃った家族の写真を見せます。

まだ幸せだった頃の家族の肖像。そこにルリ子はまだいないのだけど。

ルリ子にとって赤いマフラーは、父が若い頃にしていたマフラーで、父と母と兄が幸せだった頃の象徴なんですよね。

そして、イチローにとっての白いマフラーも実は同じだったりします。

 

この写真の中にいたかった、でも今は「あなたの背中」という居場所を見つけた、というルリ子。

SHOCKERの中の世界しか知らなかった彼女は、父に連れ出され外の世界を知ることで、新たな居場所を見つけることができた。

「マフラーが似合っててよかった」はだから、父と並ぶ全幅の信頼を意味する言葉ですね。

 

あらかじめ失われた家族の温もりを追い求めるキャラクターが、仲間との関わりを通して新たな絆を受け入れ、自分自身を閉じ込める孤独から脱する

石ノ森章太郎作品の主要テーマです。「サイボーグ009」とかそうですね。

新劇場版以降のエヴァや、「シン・ウルトラマン」もこのテーマが​押し出されていたように思います。

 

世界を知らず、閉じて矮小な思想に閉じこもってしまう自分と、世界を知り、社会と関わっていく自分。

二つの自分の軋轢が、庵野監督がずーっと描き続けてきたことです。

不特定多数の生きる世界の存亡よりも、自分個人の内宇宙を優先する…という、セカイ系の思考からの脱却でもあります。

(こういうことは、新海誠監督の「すずめの戸締まり」でも書いた気がします)

 

ということはすなわち、世界のために自分自身を犠牲にすることもあり得る。

というか、ほぼ犠牲にしなければならなくなっていく。…というのが、庵野監督の世界観であるようなんですが。

 

アニメや特撮の中のカッコいい男たちは、世界の平和のために、自分の命を犠牲にしてきた。「宇宙戦艦ヤマト」でも、「ゴジラ」でも。

…となってくると「ヤマト」に対して言われてきた、特攻精神を賛美するのか?という批判が出てきそうになるのですが。

ただ、庵野監督が一線を画すのは、あくまでも組織のために強制された殉死ではなく、個人の自由意志に基づいて、「人を守りたいと思う自分の心」に基づいて、選ばれた行動であるというところ…でしょうか。

 

シン・仮面ライダーでは(一文字が言うように)そのバックに政府の男たちがいるので、ちょっと危ういのですが。

だからこそ、そこに落とし前をつけるはずの続編「マスカーワールド」は必要だと思うんですよね。そこまでセットで、完成するはずじゃないのかな…。

孤独を楽しむという贅沢

雪山をバックに向かい合う本郷猛と一文字隼人。

山は長野県と群馬県の境にそびえる浅間山です。

 

「ルリ子さんの意志を継ぎショッカーと戦い続ける」と決意を語る本郷。

それに対して一文字は、「あんたの後ろにいる連中に利用されるのは好きじゃない」と共闘は拒否します。

明るい一匹狼で、自由を好むオリジナルの一文字隼人をよく踏まえた造形だと思います。

 

「群れるのは好きじゃない」「バイクは孤独を楽しめる」と一文字。

「コミュ障」と評された本郷も、まさに群れるのは嫌いで、だからこそバイクが趣味だったのでしょうけどね。

自分を曲げても、他者のために行動しようとするのが本郷。

「世の中の役に立つ」ことは好きでも、自分を曲げようとしないのが一文字。

ここでも、孤独を好む性質と、世界のために個を捨てることが対比されています。

…という一文字も、じきに本郷と同じ行動を選ぶことになるのですが。

本郷の過去と、絶望の乗り越え方

本郷が政府の男たちと話す海岸は、茨城県神栖市の須田浜海岸

ここは波崎海洋研究施設の観測用桟橋が海に張り出し、風力発電の風車が並ぶ、独特の景観が見られる場所になっています。

 

本郷の父が警察官であり、人質をとった通り魔を言葉で説得しようとして刺され、殉職したことが語られます。

本郷は父のように優しくなりたいと願い、また同時に、父とは違って力を持ち​それを行使したいと願いました。

(そのために、緑川博士に改造されちゃったわけですが…。)

 

優しさや理想があっても、力がなければ、ただ何もできずに殺されることしかできない。

かと言って、力があっても、それで幸せになれるわけでもない。むしろ、辛い。

本郷と父の共通点は「優しい」ということで、本郷は力を持ち、それを他人のために使うことを選びました。

己れのエゴでなく、他人のためにしか力を使わない。そこから導かれるのは、辛さを引き受け、幸せの追求を諦める……つまりは自己犠牲に他ならない。

 

一文字はまた別の「絶望の乗り越え方」を選ぼうとしたわけだけど。

ルリ子に託されたマフラーに触れて、己れの信条を曲げることを決意します。

人の生き方は本人次第だけれど、それを変えられるのもまた人の思いだけなのでしょう。

大量発生型相変異バッタオーグ

トンネルの中で、本郷は11人の量産型バッタオーグ、大量発生型相変異バッタオーグに行手を阻まれます。

トンネルは神戸市のベルトコンベアトンネル(CG用の素材撮影)。

 

相変異とは、ある種の昆虫、特にバッタの仲間が個体密度の変化に応じて性質を変えること。

サハラ砂漠や中東、東南アジアなどに生息するサバクトビバッタは、餌が豊富で周りに仲間が少ない環境で育つと、おとなしい性質の孤独相になります。孤独相は草にまぎれる保護色の緑色をしています。

餌が少なく、限られた餌場に多くのバッタが集まり、ぶつかり合いながら育つと、凶暴な性質を持った群生相になります。群生相は黒っぽい色になります。

 

群生相のサバクトビバッタは羽が長くなり、長距離飛行能力を身につけます。

限られた餌を食い尽くすと、群生相は集団で飛行して移動し、次々と農作物を食い荒らしていく「飛蝗」となって、深刻な「蝗害」を引き起こします。

黒い雲のように飛来して、人々の食べ物を食い尽くし、飢えをもたらす蝗害は、悪魔にも例えられてきました。「エクソシスト2」なんかにも出てきますね。

群生相の性質を与えられた相変異バッタオーグは、その素顔も本郷以上に変質し、より異形度を増したものになっています。

 

大量発生型相変異バッタオーグは、オリジナルに登場したショッカーライダーがそのルーツです。

ショッカーライダーは仮面ライダー終盤の第92話に初登場し、最終的に「No.1」から「No.8」まで、8体が登場しました。

見た目はライダーそっくりですが、視聴者に優しい見分け方として、ブーツとグローブが黄色になっていました。

No.1はマフラーも黄色。相変異バッタオーグの黄色いマフラーはこれを踏襲しています。

No.2から8は色とりどりの(赤以外の)マフラーをしていました。だからやっぱり、「ヒーローといえば赤」ですね。

 

漫画版では、「13人の仮面ライダー」のエピソードに登場。

一文字は最初その一員であり、本郷が不吉な13人目とされるので、一文字を除いたショッカーライダーの人数は11人です。

相変異バッタオーグが11人なのは、それを踏襲しています。

未公開シーンについて

相変異バッタオーグ関連のシーンは、実際の映画に使われなかったシーンが膨大にあります。

NHKのドキュメンタリーで長々と紹介された、本郷&一文字vs相変異バッタオーグの工場での戦いは、現場のピリピリした様子がさんざん強調されていたけど。

最後に役者のアドリブに任せたバトルを撮影して一発OKになってましたけどね。そこも含めて、まるごと映画では全カットでしたね。

 

チョウオーグのアジトから外に出ると工場地帯だったので、再びアジトに向かう場面で工場での戦いになるのは、納得のいくところではあります。

ただその場合、ちょっと前の本郷vs一文字シーンと背景がかぶる感はあります。その点も、カットに至った理由かもしれません。

 

更に最近の未公開シーンの公開で、雨の中で本郷とバッタオーグたちが対峙するシーンが公開されています。

これは、漫画版の同シーンをほぼ完コピするものになってます。

これも結局使われなかったわけですが。相変異バッタオーグ関連のシーンは様々な葛藤を経ていたことがわかります。

たまたまここが公開されただけで、他のシーンにも膨大なボツシーンがあるのかもしれませんが。(ありそうですが)

 

最終的にここはトンネルの中での、CG主体のシーンとなったわけですが。

ここは結果的に、「真っ暗な中で黒っぽい敵と味方が蠢いていてよくわからない」という、初期ライダーを再現するようなシーンになりましたね。

わからないのがカッコいいという、庵野監督の印象を再現するような。

 

庵野監督の作り方。現場の人たちに一通りやらせてみて、結局「それは違う」となって、どんどん別のに変えられていく。

現場は大変疲弊するし、結論が決まってるなら最初から言え!と言いたくなるのだけど。

(特にNHKのドキュメンタリーのような切り取り方だと、そう見えるのだけど)

 

でもこれ、すべてのシーンごとにあり得る可能性を排除しない、作品に対してとても誠実な作り方だと思うのですよ。

最初から「それはない」と切り捨てることをしていないわけだから。場面ごとに、より良くなる可能性をとことんまで拾おうとしている。

自分から出ないものを拾うことで、自分の限界を超えようとしている。

結果、膨大なボツが生まれるので、現場の人はしんどいし、空気は悪くなるし、恨まれもするだろうと思うけどね。

作品に対しては、確かに誠実だと思うんですよね。

 

そして、作品のためにあえて憎まれ役を買って出ている…

ライダーのヒーローとしての在り方をそう捉えて、実践しているんじゃないだろうか。

Wライダー登場

一文字が助けに現れて、二人で変身ポーズを決める「Wライダー」シーンは、そりゃもう世代的にぶち上がるシーンでした。

何のかんの言って、乗れないシーンもそりゃあるにはあるけど、もうこのシーンだけで何もかも許せちゃうんですよね。すさまじく気持ちがいいです。

 

「本郷、俺は心を決めたんだ」「今から俺は仮面ライダー第2号だ」

めちゃカッコいいですね一文字隼人。

アクションに苦言を程してた佐々木剛さんも、柄本佑の一文字隼人ぶりは褒めてましたね!

 

バッタオーグを倒した後、頭を垂れて黙祷を捧げる本郷。それを見て、同じようにする一文字。

本作のライダーは優しいライダーで、倒した相手への慈愛の心が常にある。すべての戦いにおいて、それを描いています。

仮面ライダー0号

サイクロンの特攻によって玉座を壊し、イチローに大量のプラーナを休息補給するシステムを破壊する本郷。

こんな場面でも、「すまないサイクロン」と謝る本郷。とことん優しいですね。

 

「チョウは復活の象徴」「青いチョウは神の使い」と、イチローはチョウオーグに変身。

ベルトのWタイフーンは、仮面ライダーV3を連想させます。

イチローは父と母、そして妹に先立たれているので、その点も「父よ母よ妹よ」と主題歌で歌っていたV3と共通しています。

青いチョウへの変身、頭部にチョウの螺旋状の口がある形態は、まさにイナズマンですね。「螺旋状の口」は漫画版だけですが。

イナズマンに変身するのは、テレビでは五郎。漫画版ではサブローでした。

 

チョウは一度サナギの姿になって死んだように動かなくなり、そこから翼を持った姿に生まれ変わることから、死と再生の象徴、復活の象徴とされました。

青いチョウは幸せの象徴と言われ、特にユリシスと呼ばれるオオルリアゲハは神の使いとされているようです。

 

イチローを前にした本郷の独白。

「僕には他人がわからない」「だから他人をわかるように自分を変えた」「世界を変える気なんてない」「人生のすべてに無駄なことなんてない」

これはやはり、庵野監督の個人的な独白でもあるんじゃないかなあ……というような結びつけは、庵野監督は嫌がるのだけど。

イチローと本郷猛の消失

一文字が頭突きでチョウオーグのマスクを叩き割り、本郷はイチローのパリハライズに成功。

イチローを囚われていた妄執から解放します。

ライダーのマスクを被せ、イチローはルリ子と再会することになります。

 

マスクにルリ子の意識が残っている…というのは、「プラーナを個人の配列を保ったまま取り出し保存する」ハビタット計画のメカニズムを使ったものと思われます。

肉体の死後も、何もない仮想空間に意識だけが残る…これは実質的な不死を意味するのでしょうか。

ハビタット空間でなくても、意識だけの存在になって永遠に生きるというのは、なかなか辛そうな感もありますが。

 

「ここに残れる」というルリ子に対して、イチローはこのまま消滅することを選びます。

一方の本郷も、プラーナを使いすぎ、補給のためのベルトが壊れたため、生命を保つことができなくなります。

「自分の命を捨てても他人の心に尽くすか」「ルリ子が信じた人間を信じることにしよう」

 

誰かを「信じる」ということが、繰り返し言及されています。

「私は他人を信じない。けど、あなたの性能は当てにしている」と言っていたルリ子が、「プランでなく、あなたを信じてみることにする」を経て、あなたを信じてあなたに託す。仮面ライダー、本郷猛さん」に至る。

そんなルリ子の「信じる心」が、イチローの頑なな心も動かしていく。

そしてその中心には、「僕は人を守りたいと思う、僕の心を信じるという、本郷猛の信念がある。

立花と滝

一人残され、「人間生まれてくる時も一人、死ぬ時も一人だ」とうそぶいていた一文字ですが、政府の男と情報機関の男から、本郷猛の心がプラーナとしてマスクに固定されていることを聞かされます。

 

本郷の心と、ルリ子の心が、マスクの中で同居しているのか…と思ったら、さすがにそれだとちょっと甘いムードになりすぎと思ったのか。

ルリ子の方は、「安全な別の場所」に固定されてることになってます。政府の管理するサーバーコンピューター…ということでしょうか。

コンピューターの中に意識だけがある状態。これはもう、AIであるアイと実質的に変わらない存在になったということになりますね。

機械のボディを作れば、ケイのような存在にもなれるということになります。

人間から心を独立させたらAIになる…のか?

続編があるとしたら、浜辺美波の声で喋るロボット少女がケイと対決することになるのでしょうか。…ちょっと見たい。

 

政府の男の名前が立花、情報機関の男がであることが、最後に明かされます。

これはつまりオリジナルのおやっさんと滝、であるわけですが。

FBI局員だった滝はともかく、市井の人だった立花藤兵衛が政府の人間であるというのは、ちょっと違和感がありますね。

 

オリジナルの「仮面ライダー」には、警察などの公権力はほとんど登場しないのですが(そこは予算などの問題も大きかったでしょうが)、漫画版では最終回に明かされる真相として、ショッカーの背後に政府の存在があったことがわかります。

コンピューターを使って日本人をロボット化しようとするショッカーの計画。それは、もともとは日本政府が始めたものでした。

国民を番号で管理しようという国会の審議、あのコード制というアイデアは、日本政府のコンピューター国化計画の一部なのだ」と幹部ビッグマシンは語ります。

政府が日の下電子に発注したコンピューターを、ショッカーが奪って手を加えていたのでした…。

 

庵野監督は舞台挨拶で続編「仮面の世界(マスカーワールド)」の構想として、漫画版のこの展開について語ってました。

そこまで言っちゃってるので、それがオチという構想ではないのでしょうが。

権力の陰謀もあった上で、それに抗う一派が存在するというような、派閥抗争になっていくのかな。単純な「権力=悪」にはしたくない、という意識を感じます。

コブラオーグ

出現したことが語られるだけのコブラオーグ

チョウオーグが倒されてもSHOCKERの本体は安泰で、死神グループが新たなオーグメントを生み出し続けているということなのでしょう。

 

コブラオーグはオリジナルの第9、10話に登場するコブラ男がルーツ。

このエピソードの撮影中に藤岡弘の事故が起こり、主人公が出られないという非常事態になりました。

 

未使用シーンの公開でヒロミが「弟トオルがサラセニアオーグにされようとしたが、植物との合成は困難で手術に失敗し、死亡した」と語るシーンがあったことがわかりました。

これによってサラセニアオーグの存在が明らかにされ、コブラオーグまでオリジナル初期の怪人がコンプリートされたことになります。

第1話 蜘蛛男……クモオーグ

第2話 蝙蝠男……コウモリオーグ

第3話 さそり男……サソリオーグ

第4話 サラセニアン……サラセニアオーグ

第5話 かまきり男……カマキリカメレオンオーグ

第6・7話 死神カメレオン……カマキリカメレオンオーグ

第8話 蜂女……ハチオーグ

第9・10話 コブラ男……コブラオーグ

仮面ライダー第2プラス1号

「多少は心スッキリだ」となって、一文字はスーツとマスク、サイクロンも新調してもらい、仮面ライダー第2プラス1号として活動していくことになります。

メタリックな明るい黄緑のマスク、2本のラインが入ったスタイルは、オリジナルのいわゆる「新1号」

つまりこれがシン・仮面ライダーということになるのか。なるほど。

 

オリジナルでは、これは本郷猛なんですけどね。

漫画版の要素を加えてアレンジした結果、新1号が一文字隼人になるというエンドになりました。

これも続編があるとしたら、一文字隼人が新1号スタイルのライダーで活躍することになるのか…。それちょっと、抵抗ある人がいるような気もするけれど。

漫画版のように本郷が復活するとしたら、どんなスタイルになるのだろう。まさか新2号?

 

第2プラス1号という表記は、シン・エヴァンゲリオンを連想させます。

シン・エヴァではマリのエヴァンゲリオンが次々エヴァを吸収して、8プラス9プラス10プラス11プラス12号機になっていました。

その辺は庵野監督の「合体して強くなる」への飽くなき憧れ…でしょうか。

本郷ライダー編の終わり

本作のエンディングは、完全に漫画版「13人の仮面ライダー」の終わりを踏襲したものになっています。

「13人の仮面ライダー」では、本郷猛がショッカーライダーに殺されて死亡

頭を打ったショックで洗脳が解けた一文字隼人が、仮面ライダーを引き継ぐことになります。

肉体は死んだ本郷猛ですが、取り出された頭脳が地下研究所のガラス容器の中に保存され、その意識は生き続けることになります。

コンピューター上の本郷猛の意識は、マスクを通じて、一文字隼人の見聞きするもの、感じる風や排気音を、同時に体験することができます。

 

 

「俺たちはもう一人じゃない」「いつも二人だ。二人でショッカーと戦おう」

映画を締めくくるこのセリフは漫画版とまったく同じ。

海の上の道路を走っていくのも、同じです。

映画の道路は、庵野監督の故郷・山口県の角島大橋です。

 

シン・仮面ライダーにおける「マスクにプラーナが定着する」という設定は、漫画版のこのシーンからの逆算で発想されたものと思われます。

テレビと漫画に共通する「仮面ライダー」の真髄、「仮面ライダー」だけにあってその後の数多のシリーズ作品にない特徴といえば、事故による主役交代というアクシデントから生まれた「Wライダーの絆」なんですよね。

 

最初から「ニコイチ」ではなく、孤独に戦うことを余儀なくされていた男たちが、予期せぬなりゆきによって結びつけられ、固い絆を築いていく。

孤独な戦いは辛いけれど、二人ならそこに一本足すことができる。

そこを仮面ライダーの核として捉え、物語が構築されたのだと思います。

 

漫画版ではここはあくまでも前半部の終わりで、ここから後半「一文字ライダー編」になります。

なので、「シン・仮面ライダー」も二部作であることが大前提であるような気もするのですが。果たして、どうなるでしょう…?