夏蜜柑の萌語り -127ページ目

【ぬい月】酔夜

 仕事を片付け、書類から顔を上げ、凝り固まった背筋を伸ばそうと大きく延びをしたときだった。

「んー…っと、電話?」

 しかもプライベート用の電話だ。俺は携帯のディスプレイを見て、発信者を確認する。
「誉…? 何でだ…?」
 今やお互いに社会人だ。もう滅多に会わなくなったが、高校時代からのかけがえのない親友である。
「もしもし? 久しぶりじゃないか、どうしたんだ、こんな時間に…」
 電話口の向こうは何だか騒がしい声に満ちていて、どこかの店に居ることが窺い知れた。
「ごめんね、非常識な時間に。ただこっちも緊急事態で」
「穏やかじゃないな。どうした?」
 事情を説明する誉の声を聞きながら、俺の眉間が強張っていくのがわかった。
「…わかった、それで場所は? あぁ、すぐ行く。…ありがとう、頼む」
 誉の言葉を素早くメモし、仕事用の携帯電話の地図機能で道順を確認する。携帯を閉じると、車のキーを持って事務所を飛び出した。


 車を走らせる道中、誉に託したことの無事を祈り続けた。

「月子!!」

 誉に教えられた居酒屋の戸を勢いよく引き、店員を振り切って中に乗り込んだ。
 すぐに入り口傍の座敷から誉が顔を出す。
「一樹! こっちだよ!」
「おぉ、誉!」
 靴を脱ぐのももどかしく、座敷に上がり込む。
 …途端に、脱力した。
「月子…お前なぁ…」
 座敷の隅で、誉の陰になる位置に、猫のように丸まって眠る月子。傍らには見たことない女性が居て、あろうことか彼女の膝を枕にしていた。
「ほら、夜久さん? 一樹来たよ?」
「つーきーこ! 彼氏さんが迎えに来たのよ」
 俺は月子の傍に跪き、肩を揺すった。
「月子。ごめんな、ちゃんと来たぞ」
 月子は少し身じろぎするが、起きる気配がない。
「起きないわねー…あぁ、構わないですよ、このままで。気持ち良さそうに寝てるし」
 月子に膝を占領されている女性は明るくそう言って、無理に起こそうとした俺を制した。
「すみません…えっと」
「夜久さんの大学の友達だそうだよ」
 誉が紹介し、女性が頭を下げる。
「春名真琴です。二人で飲んでたんですけど、この子が潰れちゃって」
「それが何で、誉から連絡が…?」
 誉が何を思い出したのか吹き出す。
「それが面白いんだよ。春名さんは、まず夜久さんの携帯で誰かに連絡取ろうとしたんだよね?」
「はい…彼氏居るのも知ってたし。でも、この子の携帯、充電切れてて!」
 春名と名乗った女性が、月子の携帯を開いて見せる。確かに、画面は暗黒のままだ。
「それで、わたしも知ってる人に連絡を取り次いで貰おうと思って…その…」
「ビックリしたよ、犬飼くんが伝書鳩になって僕に電話を掛けてくるなんて」
「犬飼? あぁ、神話科の弓道部だった」
「そう、彼。彼が、『なんか飲み屋で夜久が潰れてどうしようもないから、夜久の旦那に連絡してくれないか』って」
 言いながら、誉はクスクスと笑いだす。
 なるほど、犬飼は元部長の誉が俺の友人だと知っていて、誉なら俺に連絡を取れると思ったのだろう。
「何がおかしいんだよ? そりゃ、伝言ゲームみたいだが」
「いやね? 実は、その電話貰ったとき、僕、ここに居たんだ。偶然」
「そうなんです! それで、女性だけじゃ危ないからって、傍についてて下さって」
 酔いつぶれた月子含めた女二人、誉が居なかったらと思うとぞっとする。電話口でも頼んだことだが、誉は元から傍に居てくれるつもりだったのだろう。
「悪かったな、二人とも。多分、こいつがこうなったの…」
「そうね、その通りだと思います」
 全てを言う前に肯定され、恐らく今日ずっと愚痴に付き合わされていたであろう彼女に頭が上がらなくなる。
「僕も聞いたよ。一樹ダメだよ? 夜久さんを寂しがらせちゃ…」

 今日は元々、二人で夕食を取る予定だったのが、俺の残業でドタキャンになってしまった。
 メールの一つも来ないから相当怒ってるんだろうと焦って仕事をしていたが、まさか女友達を愚痴に付き合わせ、酔い潰れ、携帯の充電切れとは。

「…ん」

 月子の吐息が漏れ、視線を落とすと、寝返りを打ってこちらに顔を向けていた。
「そろそろ限界だな…連れて帰るよ」
「…そうだね」
「うわー無防備な顔ー…。苦労しますねー…」
 俺は春名さんに謝罪を入れてから、月子の肩と膝の下に腕を差し入れ、抱き上げる。月子の腕を自身の首に巻き付け、立ち上がった。
「あ、今日の飲み代いくらでした?」
「あー、いいですよ! 私も月子に愚痴聞いてもらったし、今日は月子の寝顔と彼氏さんの顔拝めたってことで、私持ちで」
 さっぱりした笑顔でそういう彼女に、俺もこれ以上は言わず頭を下げる。
「じゃあ今度、うちに招待しますよ」
「わぁ、嬉しい」
「僕も呼んでよね」
「あぁ」

 俺は二人に会釈し、月子と共に店を出た。
 そっと車の後部座席に座らせ、シートベルトを着けてやる。
「月子…」
 その時、気づいてしまった。

 月子の頬に濡れた跡がある。
「ごめん…月子」
 そっとその頬に唇を寄せ、運転席に乗り込む。
「かずきさん…」
 うわ言のように呟いた月子を振り返ると、表情は穏やかに微笑んでいた。
「帰ったら…」

 いっぱい愛してやるからな。