検証・大川小問題 津波襲来まで51分、何が…残るナゾ
東日本大震災で学校としては最大の犠牲者を出した宮城県石巻市の市立大川小学校。児童108人のうち70人の死亡が確認され、震災からまもなく2年がたとうとする今も、4人の行方が分かっていない。
教員も10人が命を落とした。あの日、学校では何が起きていたのか。市教委の検証に遺族側は反発、それを受けた文部科学省による検証は緒に就いたばかり。その中で遺族は、残された児童は、どんな生活を送っているのだろう。今の姿を追った。(荒船清太、高木克聡)
なぜ大川小学校でこれほどの大きな被害が発生したのか。これまで石巻市教委などによる検証が行われてきたが、疑問は今も解消されていない。
地震が発生した午後2時46分、大川小では5時間目の授業が終了し、帰りの準備が始まっていた。
市教委の報告書によると、学校のマニュアルは津波発生時の避難先を指定しておらず、児童と教諭は校庭にいったん避難した。その後、裏山への避難を主張する学校側と、登りやすいものの裏山より低い場所にある新北上大橋付近の三角地帯への避難を主張する地元の行政区長側で意見が折り合わず、対応が遅れたとされる。
地震発生から津波襲来までの時間は51分あった。校庭にはスクールバスも待機していた。児童を迎えに来た保護者らは校庭からの避難を具申していた。
だが、津波が来る数分前まで教諭や児童は校庭にとどまり続け、最終的には、三角地帯への避難を決めた。
当時現場にいた地域住民らの証言からは、校庭でたき火を準備していたことや、三角地帯へ避難する際の経路が、より安全な県道経由ではなく、裏道経由だったという「謎」も浮上している。
市教委関係者は「いずれかの時点で『校庭に待機する』との判断をし、津波がいよいよ来る段階になって避難を始めた可能性がある」と指摘している。
産経新聞 3月6日(水)11時30分配信
お読みになりましたらぜひクリックをお願いします。