たんたん日記「ブログ主の61回目の誕生日」

 

 

 本日9月24日はブログ主の誕生日である。同じく誕生日を迎えた皆さんにお慶びを申し上げる。ところで、今から11年前の2013年9月24日に自分の誕生日に宛てた日記を記していたので、それをここに再掲しよう。

 

 

(ここから)

 

 今日はブログ主の誕生日である。なんと50回目となる。半世紀に亘って生き永らえていようとは(思いもよらない)ことだ。しかし、いわゆる五十肩だろうか、この春から右肩に痛みがあって、物を拾うような簡単な動きも覚束ない。そして、日常における身のこなしも、何となく緩慢になってきた気がする。

 

 さて、己の人生を振り返ると、人様と凡そ変わらず、様々な出来事があった。その中には、勤めた会社の数やその他の世間一般の平均と懸け離れた事物もあるだろう。ただし、ここは見ず知らずの人が自由に読むことができるブログなので、あまり(みっともない)ことは書かずに置こう。

 

 それでも、ブログ主は些か奇妙な歌や奇天烈な意見を書き連ねることによって、些か恥ずかしいプライベートをさらけ出している。しかし、短歌というものはそもそも短詩型の私小説であれば、それも(仕方がない)ことだ。それでも、当ブログの読者の皆さんには、ブログ主の独り言を読んで、些か面白可笑しく、そして、ちょっぴり哀しく想っていただければ幸いである。

 

 

 ところで、ブログ主がこうして定期的にブログを更新している理由の一つは、もし、些か人生に疲れたかもしれない人がいたら、彼/彼女に「この続きを明日も、来週も読みたい」と思っていただけることを望むからである。

 

 あなたがたった今、このブログを読んでいるということは、あなたがたった今、生きているということに(ほかならない)。こんなことを書くと、ブログを止めることができなくなってしまうけれど(笑)

 

 

 それにしても、若く、そして、人並みに勢いもあった時は過ぎて、こうして永らえていると、それは己独りならず、神様の意思や、自然の力や、そして、取り巻く人々との縁などによって、生かされているという気がするものだ。

 

 もしも、それが単なる偶然であるとしても、己がただ長く生きているだけではなにやら(申し訳ない)気もする。世のため人のために一生懸命頑張っている人を見ると、自然と頭が下がる思いがする。

 

 

 自分の人生を他人のために使わなければ、社会的動物である人間として生まれた存在としては、たいそう(もったいない)ことだろう。ただし、ブログ主はなんとかしなければとは思うものの、その身の周りは(ない)ことづくしの有り様で、そして、なかなか社会的動物には成れずに、こうして毎日を過ごしているのだ。

 

 

半世紀おもわず垂れるこうべかな/ブログ主

 

(ここまで)

 

 

 そして、本日、61回目の誕生日を迎えることとなった。上記の日記からさらに年月を重ねて、こうして未だに永らえているのは、ちょっぴり不思議な気もする。

 

 ただし、最近は身体の運動能力の衰えのみならず、体調の何となく優れない有り様も気になってきた。それでも、「こんな小人の方が長生きするものかもしれない」と笑いながら、相変わらず毎日を過ごしているのだ。

 

 

 それでは、一首。

 

いま少しほどけずあれよ 玉の緒のころがる先にむすべる光/ブログ主

 

 

クローバー