私の防災・その47 阪神淡路大震災から26年(少々追記あり) | もえもえ育児ほぼ終了日記と障害児家族の防災ブログ

私の防災・その47 阪神淡路大震災から26年(少々追記あり)

1/17は阪神淡路大震災が起きた日です。

私の父は単身赴任で芦屋市に住んでいた時に被災しました。
父は大震災直前に築浅のマンションに住み替えたばかりでした。
そして、父のマンションは家具などは倒れたり飛ばされたりはしましたが、マンションそのものは無事。
でも、以前に住んでいた古いマンションは大きな被害が出た地域にあったこともあり、大きく損傷して住める状態ではなくなったそうです。
また、揺れがおさまって部屋の外に出た父は道一本を挟んだ向かい側の古い住宅が立ち並んでいた区域が軒並み倒壊している光景を目の当たりにしたそうです。

その時の体験を父から聞いたこと、また、まだ復興が始まったばかりの頃に父のもとを訪ねて町中の被害を目の当たりにしたことは、今の私が防災に力を入れる大きな原動力となっています。

今私達が住んでいる家を建てる時、何よりも重視したのは耐震性が高いこと。
そして、河に近い場所であることから木造住宅はやめ、更に地盤調査及び改良をしっかり行い、万が一の時に屋上避難も出来るように屋上を作ったのです。
家具は少なくて済むように収納も考え、家具を置く場合も危なくない配置を考慮し、しっかり固定。

とにかく、
地震そのもので命を落としたり大きな怪我を負わないこと
を第一に考えました。

命を守る住まいを確保したので、次は生活を守る備えです。

先ずは非常持ち出しリュックは人数分。
もえもえが生まれてからは特にもえもえを守るための必需品を手厚くした持ち出しリュックに作り替えました。
アレルギーが有ることがわかってからは非常食も内容をしっかり確認して揃えるようになりました。
幸い、もえもえは小さい頃は卵や甲殻類にも反応が出ていましたが、今ではピーナッツ以外除去の必要が無くなったのでかなり楽になっています。
常用している薬(もえもえと自分の)も常に数日分を毎日持ち歩くバッグに入れるようにしています。
このバッグは非常時もリュックと一緒に持って出るつもりなので、肩掛けに出来るタイプです。
いざと言う時にはバッグを斜めがけにしてリュックを背負ってもえもえの手を引いて逃げる想定です。

父から口酸っぱく言われたのが
「とにかく水とトイレだけは確保しろ❗」
でした。
健康なら最悪の場合、しばらく食べなくても何とかなるが、水(飲み物)がなければ持たない。

震災直後の報道で流された衝撃的な映像が今でも脳裏に焼き付き忘れられません。
水道管も破損し、ひび割れた道路から噴き出す水を必死に汲んでいる被災した方々。
「これしか飲むものがないから家族のために汲んでいる」
被災して心身共に大変な状況で飲むものが道に溢れ出した水しかない。
あの方々はあの水をそのまま飲まれたのでしょうか。
今でも思い出すと胸が痛む記憶です。

そして、トイレだけは絶対に半日でも我慢ができない。
特に女性は安心して用を足せる状況を確保するのは死活問題になるとも。
知り合いの安否確認のために訪れた避難所で父が見たのは
流すことが出来ず便器内に積み上がり溢れ出した汚物
だそうです。
男性なら物陰で用を足せても(これも衛生上やってはいけないことですが)女性はそうはいかない。
あんなトイレで用を足せるわけもない。
いったい何処で用を足していたのでしょうか。

食料も父の場合はそのまま食べられる干し芋があったことで助かったと話していました。
災害時は野菜不足になりやすく、体調不良になりやすいですが、干し芋なら繊維も栄養も豊富ですよね。
父の好物で知り合いからたくさん送ってもらった直後だったことが幸いしました。
私が防災備蓄で野菜の備蓄に力を入れているのは父の経験談が大きいですね。

父の経験を基礎に、その後の様々な災害の情報を見聞きすることで自分なりに対策していたことで、東日本大震災の時でもコロナ禍でも慌てることなく対処することが出来ました。
自分達家族だけでなく、大切な友人たちを
手助けすることも出来ています。

現在、コロナ禍が感染爆発していると言ってもおかしくない状況になっています。
まさに今、家族や身近な人が感染したら即座に外出出来なくなります。
ちゃんと自宅待機(療養)出来る対策は済んでいますか?
そして、災害は時を選ばすにやって来ます。
今この瞬間に大きな地震が起きたら、自分と家族を守りきれますか?
安易に被災したら避難所へ行けば良いと言えない状況になっていること気付いていますか?
命と生活を守る備え、絶対にしておいてくださいね。