私は1976年、昭和51年の2月11日、いわゆる建国記念の日に生まれた。私の生まれた家は、数軒の借家が、所狭しと肩を並べているうちの、ひとつだった。

母は専業主婦。父は、おそらくクリーニング店に勤めていたと思う。クリーニング店の社長が、京都出身の信頼できる人で、どうも姉と私の名付け親らしい。私の「もえ」という名前は京都風ということだろうか。

2月生まれの私に、その社長は、冷たい雪の下から力強く草木が芽吹くイメージを込めた、という話だ。

(母と私 生後1歳くらいだろうか)

(父の膝の上でふざけている私(右))

私を産んだとき、母は35歳。

年子の姉を産んで間もない第二子。大変だったろうと思う。結婚も出産も、当時では、かなり遅かった方だろう。

私は難産で、仮死状態で生まれた。頬を叩かれ、ようやく産声をあげて泣いたとき、よかった、よかった、息ができたのね、と安心したと母は話してくれたことがある。

(母がつくった七五三の着物を着る姉(左)と私)

家からすぐ近くではない、すこし離れた保育所に2~3年通ったと思う。

絵が大好きで、忍者ハットリくんを描いていたのを覚えている。お遊戯のときに、誰もやりたがらず、決まらなかった、かぐや姫のお婆さん役を、私が引き受けると、担任の保育士さんが「ありがとう」と私の頬にキスをしてくれた(と記憶してる)。

嬉しくて嬉しくて。だから、私が初めて抱いた将来の夢は、保育士さん、だった。

(顔が瓜二つの大好きな弟とともに)

(小学6年生のときの運動会 鼓笛隊のチアとして)

私が小学校に入る頃に、6つ離れた、私の顔と瓜二つの弟が生まれた。自己愛に近かったのだろう、弟が好きで好きでたまらなかった。

小学生の私は、勉強の成績がいまいちだった。もっと勉強がわかるようになりたい、と思っていたけれど、どうしたらわかるようになるのか、わからないままで6年間過ごした。

運動神経は良いほうで、短距離も長距離も、幅跳びも高跳びもやった。クラブ活動は、卓球クラブと演劇クラブ。バスケットボールクラブに入りたかったけれど、人気があり、人数が多すぎて、あきらめた。

(ピアノの発表会でピアノを連弾する私)

小学校に入ってからピアノを習っていた。ところが、家にピアノがないので、紙の鍵盤で練習していた。それが6年生まで続いた。一度だけ出たピアノの発表会。さして上手くもない娘の弾いた曲が焼かれたレコードを、何度も何度もうっとり聴いていた母の姿を思い出す。

小学校6年生の頃から、両親は突如、パン屋さんを始めた。もともと、父はパン職人でもあったのだ。これからお金のかかる子どもを育てるのに、タクシードライバーになるか、自営業でパン屋を始めるか、夫婦で話し合ったらしい。

私は自分の家がパン屋になったことが、これまた嬉しくて仕方なかった。毎日焼きたてのパンが食べられる生活は、夢のようだった。

(中学3年生 バスケットボール部キャプテン)

中学に入り、待ってましたとばかりに、そそくさとピアノ教室を去り、やっと念願だったバスケットボール部に入部。この頃は身長147cm。背が低いプレーヤーのポジション、ガードだった。

中学1年生のとき、2400メートルのロードレースで市内3位をとった。県大会は99位と振るわなかった。とはいえ、走ることが楽しい、走ることしか自分にはないかも、と思っていた私を、股関節の痛みが襲った。疲労骨折だった。それからは、二度とロードレースに出場することは、なかった。

生徒会の書記に立候補し、当選した。生徒会室を掃除することや、黒板に何か書くこと、話し合った内容をノートに記録することが、楽しかった。

(第3次中学生海外派遣事業に参加)

中学3年生の夏、木更津市が毎年実施している中学生海外派遣事業に参加することになり、アメリカ西海岸にある木更津市の姉妹都市・オーシャンサイド市へ。6泊7日、初めての海外。

同い年のアメリカの女の子が、ピアスをあけ、メイクをしている姿が衝撃的だった。あれ?もしかして、日本の常識って、世界でも常識ってわけじゃないのかも。そのことを実感できたことが、その後の私の考え方に、とても大きな影響を与えている。

(他の部活のキャプテン等とリーダー研修に参加)

高校受験では、偏差値が高めの公立高校をあきらめられず、チャレンジするも不合格。けっきょく、家から一番近い私立の女子校に入った。

学級会長をしたり、バスケットボール部の副キャプテンになった私は、高校で毎年のように実施していたリーダー研修に参加した。この研修は、自衛隊がいる木更津駐屯地で行われていた。

私にとって、自衛隊は、とても身近な存在だった。

消費税が導入され、バブルも弾けると、自営業のパン屋の売り上げはみるみる下降していった。支払いに追われる不安からか、なかなか寝付けなくなった母が、夜中にキッチンで強いお酒を飲む姿を、度々見かけるようになった。家計的に、とても大学進学は望めなかった。

衣食住が無料(ただ)の自衛隊は、自立したい私にとって、希望そのものだった。そうだ、高校卒業後は婦人自衛官になろう。自衛隊のパンフの片隅に、自衛隊で働きながら夜間の大学へ通うこともできる、というような小さな説明書きがあり、私はそこに、一縷の望みを託して、自衛隊の試験を受けた。しかし不合格。どうも視力が悪すぎて(0.03未満)落とされたようなのだが、真相は未だにわからない。

さぁ、時は高校3年の冬。突然、進路が絶たれ、お先真っ暗だった。進路指導の先生に新聞奨学生を勧められたものの、時すでに遅し。応募は締め切られていた。

それでも、あきらめ切れなかった。

朝日新聞奨学生(朝日新聞社が実施している社会貢献の制度、販売店に住み込みで働く代わりに学費と生活費を給付してもらえる、しかし途中で辞めたらもらった奨学金を全額 新聞社に返済しなければならない)のパンフに書かれている販売店の電話番号に、つぎつぎ電話をした。なんとか雇ってもらえないか、と交渉した。全滅かと思われたとき、足立区北千住の販売店が「新聞配達ではなく、従業員15人分の朝食と夕食を作るまかないさんなら募集している」というので、やります!と即答した。料理などしたことがないのに。

なんとか、新聞奨学生として住み込みで働きながら、予備校に通える場所を自分の手でつかみとった。粘り勝ち。あきらめなければ道は開けることを、初めて知った日かもしれない。

(サンタクロースの格好で夕刊を配達)

朝日新聞奨学生となった私は、1年目はまかないとして、2年目は朝夕刊配達員として、働きながら予備校へ行った。1年目は残念ながら大学に合格できずだったが、2年目はなんとか大東文化大学に合格できた。

3年目からは、板橋区中板橋の販売店に移り、400部近い朝日新聞の配達・集金・ときどき拡張もしながら、毎日、大学へ通った。

クリスマスの日は、サンタの格好で、お菓子がいっぱい入った段ボールを自転車の後ろにくくりつけて、夕刊を配りながら、そこここにいる子どもたちにお菓子をあげた。

(ニュージーランドでバンジージャンプ体験)

朝日新聞奨学生としての日々は過酷だったが、いいこともあった。なかでも、毎年選ばれた4名の朝日新聞奨学生しか行けないニュージーランド旅行に行くことができたのは、とてもラッキーだった。

新聞配達を休んで1週間ほどニュージーランドへ。ホームステイ先のホストファミリーに新聞奨学生としてどんな生活をしているか話すと「オオー!クレイジー!」と、驚かれた。あぁ、やっぱり自分のこの状況は、海外からみたら異常なんだな、高い学費をなんとかしたい、と強く思った。

(アメリカ東海岸 ホワイトハウス前だろうか)

新聞奨学生をやり抜き、大学などを卒業できるのは、そうはいっても簡単ではなかった。奨学生のなかには、毎日の配達に疲れ、眠くて学校に行けなくなり、辞める仲間もいた。

朝日新聞社は、卒業できた奨学生に、アメリカ旅行を用意していた。私は、それにも、参加した。

(パキスタンでの現地研修に参加)

大学では、パキスタンという国で生まれたウルドゥー語を学んだ。1ヶ月、現地研修にも行った。パキスタンの町中では、女性の姿をほぼ見かけることがなかった。政治家は男性のみ。軍部が力をもち、周辺国とさまざまな問題を抱えている国だということを知った。

パキスタン国民が立ち上がり、パキスタンを変えていくしかない、ということを、「パキスタンの可能性」という論文に込めた。

(大東文化大学の卒業式 ゼミの片岡先生とともに)

私が大学に入ったのは1996年。前年に、沖縄で米兵による少女暴行事件があり、日本中が日米安保への疑問、地位協定見直しの声で揺れていた。

そんなことなど知らなかったノンポリの私だが、大学の講義・平和学と出会い、遅ればせながら20歳にして初めて沖縄戦や日米安保を知ることとなった。

毎回の講義は、沖縄戦など戦場のリアルな映像を観る、というものだった。一番前の席に座り、映像をみながら泣いた。講義が終わると泣きながら教授の元へ行った。無力感いっぱいに「私に何ができるんでしょうか?」と問いかける私に、平和学の教授は「まずは、学ぶことです」とやさしく答えた。真実を知れば知るほど苦しくなる。どうしたらいいか、わからなかった。

そんな、答えのでない悶々とした日々のなか、運命的な出会いが待っていた。

日本共産党を相談相手とする青年サークル・民青同盟の先輩たちに出会ったのだ。民青同盟大東文化大学班は「日米安保どうなる!?」という学生向け学習企画を弁護士さんを招いて開催。70人ほどの学生や教授が集まり大盛況だった。こういう知的なことを私はやりたかったんだ!と民青同盟にすぐ加盟した。

そして、それから2ヶ月後、民青の先輩に日本共産党に入らないか、と誘われた。消費税を無くそうとしている政党だと聞き、いい政党ですね、と1996年7月26日、入党した。日本共産党が、比例で726万票をとり、大きく躍進した年だった。

大学卒業後は、どこかの国のNPOかNGOで働きたかった。人と人をつなぐ人になりたい。人と人がわかりあえる何か普遍的なことに関わりたい。そんなピュアな想いだけが先走っていた。しかし、やはり、現実は厳しかった。そうは問屋が卸さない。貯蓄のない私が、給料も少なく、ほぼボランティアとなってしまう組織のなかに入って生活できるわけがない、ということが、早々に明らかとなった。

しんぶん赤旗の記者募集に応募しようか、と思っていた矢先、日本共産党の専従職員にならないか、と声をかけてもらった。

2000年、大学を卒業してから7年間、私は埼玉県のなかの日本共産党組織に責任をもつ場所(日本共産党埼玉県委員会)で働いた。主に、民青同盟の高校生の相談相手として学習の援助をするという、楽しい部署で、7年間を過ごした。

(大宮駅で労働相談とシールアンケートを実施)

2002年2月2日、私は結婚した。お相手は、一緒に民青の高校生をサポートしてきた男性だ。2003年9月に第一子の出産を控えるなか、家賃が安く、更新料がないUR団地に引っ越した。

(第一子は埼玉協同病院で夫立ち会いのもと出産)

(森島きよ子元市議と私 お腹には第二子が)

第一子の子育てに必死な毎日で、なかなか地元の上尾市のことを知る機会もなく過ごしていたある日、党から市議立候補の要請を受けた。

同じUR団地に住む森島きよ子市議からのバトンを引き継いでほしい、とのことだった。

市議がどういう仕事をするのか、給料がいくらなのか、準備すべきことはなにか、何から何まで、市議について全くわからなかったけれど、「31歳の私が立候補することで、若い人が政治に関心を持ってもらえたら嬉しい」という気持ちひとつで、立候補の要請を承諾した。

立候補を決めて間もなく、私のお腹のなかに第二子が宿っていることがわかった。どうなることか不安だった。流産も覚悟した。「こんなときに来たんだから、しがみついてでも生まれるわよ」という助産師さんの言葉が、最後まで私を支えてくれた。

選挙中、なんども休憩をとり、お腹の子どもを守りながらたたかった。壮絶な選挙戦だったけれど、みんなのサポートのおかげで乗り越えることができた。

(第二子は助産所サンバハウスで出産)

初当選した私は、初議会を産休で休むこととなった。なんと上尾市議会史上、初めての妊婦議員だということだった。

歴史を一歩前に進めたようで、誇らしい思いもあったにはあったが、やはり、まだまだ、後ろめたさの方が、勝ってしまうような状況だった。

(市議当選後に行った初めての一般質問)

産後、1ヶ月もしないうちに、第二子を家庭保育室(今でいう小規模保育施設)にあずけて議員としての仕事をスタートした。

初議会の初質問の緊張は、いまでも忘れられない。

(3・11東日本大震災後 ボランティアに参加)

市議になって4年目の2011年3月11日。東日本大震災があり、福島第一原発事故が起きた。なにかしなければと、泥かきボランティアに参加。

(上尾市内の小中学校で放射線量測定を実施)

上尾市内においては、学校内や公園内での放射能測定を自主的に実施し、市に対し除染を求め、子育て中の方たちに放射線量の推移を知らせた。

(市議1期目の途中で県議に挑戦し次点)

2011年、上尾市議1期目を途中で辞して、埼玉県議会議員選挙で立候補するも落選。同じ年に行われた秋の市議会議員選挙で、上尾市議に再選した。

(八枝神社でお宮参り 義父と義母 家族みんなで)

2014年に第三子を出産。

産前産後、思いきって2議会休み、体力回復と授乳に注力した。夫も初めて1ヶ月の育休を取得。公人や男性が、率先してこうした休みをとることは、社会の流れを変えていく上で説得力をもち、本当に重要だと実感した。

2007年から3期12年間、市議として働き、そして2019年、再び、埼玉県議会議員選挙に挑戦。

(当選翌日 駅に立ち選挙結果報告を配布)

県議に初当選し、現在に至る。