『細菌学者の般若心経と相即の知』(吉田眞一)。
本書(本文292頁)は「読書のすすめ」さんのサイトで、お勧めの一冊として上がっていたもの。
仏教学者の書かれた類書はあまたありますが、異分野を専攻された方の類書としては、稲垣栄洋氏のものが思い浮かぶ。
まだまだ、他にもあるかもしれませんが。
加えて、本書の内容に、私自身、ご縁をいただいた福岡の「ヒトの教育の会」の創始者である故・井口潔先生が主宰されていた「福岡井口感性塾」の講演も含まれていることも大きい。
大学の通信課程の学修もあるので、就寝前の時間や勉強会での金澤遠征の時間を使って、時間はかかりましたが、読み進めてきた一冊。
すでに、本ブログでも「読書のすすめ」ユーザーの若手の論客が、断片的ではありますが、読後感をあげていらっしゃいます。
コメント欄が皆さんないので、コメントできず、するとしたらリブログしかない(リブログのない方もいらっしゃいますが)。
ロートルが、と言われそうですが、ロートルにも五分の魂。
まず、本書の構成を示しておきたいと思います。
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1・『般若心経』と仏教哲理
2・相克の知
3・細菌学者が垣間見た哲学的世界
4・若き学究の徒へ伝えたいこと
5・ふたたび矛盾的相即
あとがき
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本書の中から、気になったところなどを中心に抜き書きしておきたいと思います。
今回は3・「細菌学者が垣間見た哲学的世界」から。
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「あやまちの始まり」
私たちは生まれてきた子供に名前をつける。
犬や猫にも何の疑問ももたずに名前をつける。
名前をつけることを楽しみにさえする。
人間はなぜ名前のないものに名前をつけたがるのか。
名前をつけるということはどんな意味をもつのであろうか。
それは名前をつけることによって私たちの概念思考が初めて可能になるからである。
私たちが住む世界は言葉がもつ意味によって埋めつくされている。
<中略>
環境線をひいて区画化し、区画化したものを独立した「存在者」として認識している。
井筒俊彦はこのことを「分節している」と表現する。
(P156・157)
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(2023・12・30読了)