【読書日記】『維摩経入門』(大森曹玄) | 「そば屋さのあんちゃん、息災け?」

「そば屋さのあんちゃん、息災け?」

稀有な病気をはじめ、人のあまり経験しないことを経験しました。
そんなことを織り込みながら、日ごろの読書を中心に綴っていければと思います。

『維摩経入門』(大森曹玄)。

 
「禅と道場」。
 

 

本書(本文196頁)は、「読書のすすめ」さんのお勧めの一冊としてあがっていた一冊で、販売冊数限定のもの。

著者の大森曹玄し老師は、母校・日本大学を終えていらっしゃる人物。

色んな経典で知っておきたいものがあるなかで、「維摩経」もその一つであり、新書の形態をとっていたので、さっそく落手したものです。

 

初版は1977年5月。

私が大学へ入学した年に出版された一冊でもあります。

 

まず、本書の構成をリストしておきたいと思います。

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1・維摩経の概観と理想世界(仏国品)

2・坐禅と出家(弟子品)

3・直心これ道場(菩薩品)

4・病を問う(問疾品)

5・解脱をさらに解脱する(不思議品)

6・ものを二つに見ない(入不二法門品)

7・菩薩の行とは何か(菩薩行品)

8・仏を見るとは自己を見ること(見阿閦仏品)

あとがき

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本書の中から気になった項目名や内容などをしばらく抜き書きし、ご紹介してきたいと思います。

今回は、4・「病を問う」から。

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「解脱の意味

 

至道無難禅師の歌に、こういう歌があります。

「生きながら、死人となりて、なり果てて、思いのままにする業ぞよき」これは脱落身心、解脱した境地で、私どもの働く生き方ですね。

空を生きるという生き方はそういう生き方だと思います。

至道無難禅師は、こういう歌も作っています。

「主なくて見聞覚知する人を、生き仏とはこれをいうなり」主なくてとは、己れというもの、自我というものがないことであり、その何もない、いわば宇宙的立場で、見たり、聞いたり、感触したりする。

そういうことのできる人を生き仏という。

逆に「主ありて、見聞覚知する人を、生き畜生とこれをいうなり」私が私がと、自分中心に計らっているものは、生き畜生だ。

こういう、ものすごい歌も作っておられます。

 

(P109)

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(2023・12・18読了)