この話はヤングケアラーの話じゃないか!

途中から、私はやるせなくなった。

一人の女性の半生を描いた小説だと、気楽に読み始め、読後しばらく考えこんでしまった。


話は、ヤングケアラーのヤの字も出ないし、悲壮感もなく、批判的視線もなく、ただただ必死に生き子供を育てるシングルマザーの生き様と、その息子のことが書かれている。


女性には3人の息子が居る。

長男、そしてその下の息子は双子だ。

シングルマザーが男性並みに仕事をするには、家事と育児の負担がどうしても重くなる。

そんな母に代わって、長男はまだ『子供』と言われる年頃から家事を一手に引き受け、双子の弟の世話をしてきた。


お兄ちゃんは、部活もせず、放課後は急いで帰宅し家事をする。

母はそんなお兄ちゃんを頼り、あなたが居るから仕事ができると言う。


お兄ちゃんは高校生になり、それでも家事は一人で引き受け、弟達は部活をやる。


お兄ちゃんが家事を任されていた年頃と同じ年齢にになっても、弟達は『弟』のままで、決して『家事をする人』は入れ替わらない。


あまりにも日常で、あまりにも当たり前で、そうやってやってきたから、お兄ちゃんは自分がヤングケアラーだなんて思ってもいない。


この小説に登場する人は、誰一人として彼を『ヤングケアラー』だと思っていない。


偉いね、お母さん助かるね。

皆、彼を褒める。


違う!違うよ!彼はヤングケアラーなんだよ!


私は、読んでる途中で苦しくなってしまった。

ラストも、なかなかに美談な終わり方だった。


必死な母と、頑張り屋のお兄ちゃんと、周りの複雑な人間関係。

母の苦労を描きこそすれ、その子供が被る状況には批判的な目線が無い。


なんで?どうして?こんなにもあからさまに、お兄ちゃんだけこうなってるのに。


読んでから、何週間も考えていた。


あぁ、そうか。

これは世間の目線なんだ。

もし近所や学校に、こういう子供が居たら、きっとそこにあるのは「偉いね」「お兄ちゃんが居るからお母さんも安心だね」といった純粋な感心だ。

まだ子供のうちから『大人』をさせられる歪さを、周りはもちろん、本人さえも気づいていなかったりする。


すごい本だ。

作者の意図がヤングケアラーには無いように思えて、それでいて、心に引っかかる違和感を与える。

そしてあとからジワジワくる平仮名だけで書かれたタイトル。

読み終わってから、日を追うごとに色々と気付かされる。


くしくも、今朝の新聞に「ヤングケアラー初の実態調査」との記事が載っていた。


きょうだいや家族の世話をする十八歳未満の子ども「ヤングケアラー」は、中学生で17人に一人、高校生で24人に一人居ると、厚労省と文科省の実態調査で分かったというのだ。

中には一日7時間以上を世話に費やす子供も居たという。

祖父母や親の介護だったり、外国人で言葉が不自由な親の通訳だったり、その役割は様々で、そして一様に同年代が体験するようなあらゆること(部活動や友人と遊んだり勉強したり、睡眠さえも)をする時間を奪っている。


切ない。


ラジオでも朝からこの調査の話が取り上げられていた。


そこで聞いた印象深い話二つ。


森本毅郎スタンバイの火曜コメンテーター酒井綱一郎さんが言った話。

この調査はスマホ回答だったという。

アンケート用紙を作成し、学校に配布し、授業の時間を割いて回答した場合と違って、各自学校時間外でスマホ回答とすると、世話の負担が多いヤングケアラーほど回答する時間を取れず調査の結果に入っていない可能性がある、という。

そもそもの、調べる側の認識が甘いという話。


そして荻上チキsessionで聞いた話。

家族の世話で学校生活がままならない子供(遅刻がちだったり)を教師は理解できず「困った子供」と見る事が多々あるという。

時には社会福祉士が「あそこの家はお姉ちゃんがしっかりしてるから大丈夫だね」と言ったりと、ヤングケアラーへの認識がまだまだ浸透していない、という話。


まさに前述の本『ははのれんあい』を読んで、私がモヤモヤと考えていたことが、現実としてあるのだ。


そういう意味で、この本は本当にすごい。

ある家族の物語を、まさに世の中の空気感という目線で読ませる。

そして、私は言葉でしか知らなかった『ヤングケアラー』というものが、いかにそうとは思わせずに身近にあるのだということを、知るのだ。


知る事は即戦力ではないけれど、知る人が増えれば増えるだけ、辛い子供が認識され、学外の支援に繋がりやすくなる。

そう信じる。


『ははのれんあい』窪美澄・著