巻末資料:C

合衆国の判断にハワイ問題を委ねるに関しての事実

(リリウオカラニ女王記す。革命政権確認済)

 

サンフォード・B・ドール、サミュエル・M・デイモンその他20~30名はJ・O・カーターを呼び、彼女がどうしても自分の退位に抗議をしたいというならその際に彼女を補佐するため宮殿に送られる委員会のメンバーとなるよう命じた。

 

(#いわゆる革命の日付、1893年1月17日(火)午後6時 

 J・O・Cは「女王の相談役」として仕えていた。#Page 1330)

Joseph Oliver Carter 1835−1909

 

彼はその一団に加わり、座長はデイモンが努めた。

そして女王陛下に、女王側の軍隊がなんらかの威嚇行動を行えば合衆国軍との紛争が勃発するだろう、そうした紛争は回避したい、彼女の訴えはワシントンでしっかり検討されるだろうから、彼女の側が穏やかに降伏する方が彼女の状況には大いに役立つだろうと進言した。

 

デイモンは前もって女王陛下に宣誓供述書について知らせてあったので、それで女王のほうも抗議を準備したのかもしれない。#Page 1317

 

デイモンは宣誓証言の中で言っている。

「私は確かに彼女に言いました、あなたには後日合衆国政府に聴いてもらえる権利が十分ある、と。

私はそのとき革命政権のメンバーとしてその場にいました。」(#Page 1674、および「アレクサンダー著 History (1896年10月出版)#Page 54)

 

デイモンはその朝9時に個人的に女王を訪ね、自分は革命政権に加わることにしたと伝え、さらに自分が革命政権の副大統領であるとも話した。

彼は現在も引き続き同政権の金融大臣の地位にいる。(#Page 1318)

革命政権はこの時承認されていた。

 

抗議文は次のように書かれている。

「私は合衆国の圧倒的な軍事力の前に屈するが、やがて合衆国政府は報告された事実に基づき米国代表らの行為を取り消し、私は必ずや本来のハワイ王国の立憲君主としての権威を取り戻す。」

(#Page 1394)

 

デイモンと内閣は革命政府に戻り、抗議文を提出。

ドール大統領は「本日、西暦1893年1月17日、新内閣によって受領された」と署名。(#Page 1399)

この抗議の後、女王は武力を放棄した。

 

文書は(1月18日)併合委員会が渡米のため乗船したその汽船(女王は自分の代理人を乗船させる機会を拒否されている)でハリソン大統領に送られ、次のように書かれている。(#Page 1027)

 

「私がこのような行動に出たのは三つの理由があります。

合衆国との紛争は不毛であること。なんとしても暴力や流血、生命財産の破壊を避けたいこと。

そして、貴殿と貴国政府は領域内で我々がどのような誤りにくるしめられても、きっと正してくれるだろうという確信です。」

(#1893年2月3日 ホワイトハウス受領)

 

 

 

*********資料C はここまで。*********

 

 

 

この資料は、本編の第40章「王政転覆」(上)の書き出しのあたりで

リリウオカラニが

 

「1897年ワシントンにいる間、

 問題の調停役たる合衆国政府の決定に関し

 本件の参照となるような公文書の中から、

 できる限り簡潔な声明を準備していた。(巻末資料:C)」

 

と記している部分の

 

「簡潔な声明文」

 

にあたります。

 

 

 

本ブログ記事内の太字の斜体やハッシュタグ#付きのページ(Page)数字は、

原文では本文の左横に引用として書かれているものにあたります。

ページ数字がなんというタイトルの公文書の中の数字なのか、

ずっと調べているのですがまだ見つかっていません。滝汗

多分米国政府の調査文書のどれかだと思うのですが、、、

わかり次第、またここに加えていきたいと思います。

 

原文は、こちらから確認できます。