~~~後編~~~

  

 フォスターはホノルルには一度短い旅をしたことがあった。

Z・S・スポルディング氏のケーブル会社の仕事だったということだ。

それが単なる偽装工作だったのか、それとも本来の目的が失敗に終わったものかは今判明していない。

だが現政権は、どの新参者にもするように彼をもまた即座に抱き込んだ。

彼は歓迎され、饗応され、政府の面々やその友人たちからあらゆる面で歓待された。

 

ケーブル計画についての会議が開かれ、そこで併合問題はかなりの評価を受けた。

W・G・アーウィンが先頭となっておずおずと反論をしたが効果はなかった。

フォスターは即座に、農園主側の完全な同意があるまでは何も行われることはないし、彼の役目はこれ以上はもう用済みだと返答した。

そしてもしケーブルの計画がそんなに不評ならやめる方がいいと言って、自分をそれはそれは熱心に面倒見てくれたお仲間たちにさえなんの前触れもなく立ち去ってしまった。

 

 ワシントンに着くと早々に彼は自分の講義を行い、さらにそれを公費で印刷、国民の税金を使って上院に送ったが、その全てについて彼は全く何一つ知ってはなかった。

彼が知っていることといえば、アメリカの新聞に向けて馬鹿げた作り話や事実を捻じ曲げた嘘八百の説明を何度も繰り返し書き散らしていた連中から同じことを吹きまれたものばかりだった。

 

John W. Foster 1838-1917

1892-93、ハリソン大統領の国務長官を務めた。

 

 

 共和国政権の終わり頃から現在に至るまでワシントンでそれはそれは熱心に働きかけ続けている人たち一人一人をそれぞれ批判しようと思えば、それこそ枚挙のいとまが無い。

彼らはアメリカに祖先を持つごく一部の少数派の利益だけを目的にしており、ハワイ国内でもワシントン駐在の現政府代表の中にも発言権のない、四万人ものハワイ人は犠牲にされた(その他の国籍を持つ6万人以上の人間は数に入れていない)。

 

だがこの計画に反対し、虐げられた国民の代弁者として声を発するために、一人の女性がワシントンに忽然と現れた。

法律上の顧問もなく、一銭の補助金も使わず、彼女の使命を支え、励ましてくれるのはわずか三名の忠実な支持者と、折に触れて彼女に共感してくれる友人たちだけ。

 

 そうした友人たちの中に、私の夫の家族の住む街でも、ハワイ共和国の代表を含めることはできない。

 

 1848年ごろかもしくはもっと以前、ボストン出身の一人の若者がハワイのどこかの海岸に流れ着いた。

年の頃は18歳、右も左も分からない異邦人の彼は一旗揚げようと遠く離れた土地に仕事を求めて出てきたのだった。

私の養父であった酋長のパキは彼と知り合い、彼が見ず知らずの国に受け入れられるように最初に助けの手を差し伸べ、実際にその手段として彼が出世できるチャンスを与えてあげた。

 

年月が経つうちに彼は自分で商売を始め、やがてラハイナでも指折りの大商店の一つとなった。その頃ラハイナは捕鯨船の寄港地としてホノルルに次ぐハワイ諸島第二の港だった。

 

 

 当時はこれら捕鯨船団の供給基地として繁栄を極め、商業上の重要性が増大する商業都市となっていた。

だが石油の油田の登場で海の油田とも言える捕鯨船はお株を奪われ、おかげでラハイナは没落、衰退し、廃墟の街といっても過言ではない。

 

ギルマンは多分、この街を支えてきた産業の衰退が近づいているとわかったのかもしれない。

なぜなら彼はそこでの商売取引をやめてしまい、いくつかの個人的なつながりも断ち切り、非常にたいそうな財産を持って東部に戻っていったからだ。

だが、その財産はハワイの土地とハワイの法律に守られて長年に渡る商売を積み重ねたおかげと言われている。

 

 ホノルルから彼はボストンに戻った。

そして一度だけホノルルの友人を短期間訪問したことを除けば、彼は王制転覆以後ずっとそこで暮らしている。

 

 

  1887年、私とカピオラニ王妃は旅の途中でギルマンに面会した。

彼はその頃とっても親切で私を何くれとなく世話をしてくれた。

なるほど、彼には下心があったのだ。

彼は国王からの勲章が欲しかった、そして臆面もなくそう言った。

女王一行がハワイへ戻るとき、ギルマンから数通の手紙が届き、ズバリ私の兄に勲章を授けてくれるよう求めていた。

主に私の特別な力ぞえもあって彼の願いは叶えられ、カラカウア勲章のナイト(騎士爵)の称号を賜り、勲章が贈られた。

 

 その次にギルマンからの便りがあったは、1893年1月、彼は待っていましたとばかりに革命家たちの言い分をそのまま支持したということだった。

さらに彼は、宣教師党によって喧伝された私自身やさらにハワイ人の性質というものに対する、全く馬鹿げた、悪意に満ちた声明は全て言わずもがなで信じていること公然と認めていた。

 

ギルマンがこのような忌まわしい政治的な中傷を真実のものとして何度も繰り返し請け合っていたという文書が私の元に送られてきた。

最初、私には信じがたいことだった。

だってこの男は、私の養家に入り浸りだったし、私がまだ若い娘で彼も若者だった頃、私の社交仲間にやたらとおもねり何かにつけ取り入ろうとしていた。

 

 彼はパキとコニアという、誰よりも厳格な道徳観を持った夫婦を知っていた。夫妻の家中が見事なほど規則正しい暮らしぶりと極めて敬虔なキリスト教徒のしきたりに基づいて営まれていたことや、夫妻は生まれたばかりの私を我が子として育てるために迎え入れたことも知っていた。

 

 それだけではない。彼は私とバーニス・パウアヒ・ビショップ夫人が養姉妹で普段から親しく付き合っていること、彼女とその夫チャールズ・R・ビショップが私を大切に育ててくれたことも知っていた。

夫妻の崇高な信仰心と、善良で高潔、無垢な全てのものへの深い愛はあまりにも有名で、今この場で私が褒め称える必要などこれっぽっちもないくらいだ。私の子供時代はいつもどんな時でもこの二人にしっかりと守られていた。

そのことを彼は承知していた。

 

結婚するときにはわたしは二人の家からそのまま夫の家に嫁ぎ、姑が亡くなるその日まで姑と暮らしたが、それもそれほど遠い昔のことではない。

 

それが、私が人生をともに過ごした人々の暮らし方だった。

それが、私が日々支え合ってきた(とギルマンも知っている)家族だった。

そしてそこで彼と私は出会ったのだ。

 

 彼が慌てて私の政敵に忠誠を誓い、勲章のように領事の地位をねだったのは、1893年のこと、私は56歳だった。

彼は過去など何の価値もないものとみなした。

即座に昔なじみの友人に対する偏見に臆面もなく加担し、彼女の敵方の卑劣な中傷や政治上の嘘偽りに踊らされた。

 

私宛に送ってきた自筆の記事などで私を中傷するようになり、今やすっかり自分に地位を与えてくれた連中の忠実なしもべに成り下がってしまった。

自らの誤りだらけの文章をせっせと出版するだけではない。

私に味方をしたりあるいはハワイの国民の権利を援護するような記事には、何とかして台無しにしてやろうと執念を燃やした。

 

 女王としてだけでなく一人の女性としての私に向けられる敵意は、大っぴらなものから密かなものまでこれほど大きく、それも本来なら感謝と報恩の念で私と友人として結びつけるはずの人たち、私を助けに結集すべき人々によるものである。

だから、国を出てアメリカに着いて以来、ハワイからは絶え間なく連絡がきて、しかもしばしば特別なメッセージで、私の命は「ハワイの人民にとって例えようもなく大切な宝」であるからくれぐれも大切にするように、と訴えかけるのである。

 

私が敵対者に囲まれていること、敵の中にはハワイ出身の人間もいて、全く極悪非道な連中であると私に注意を促す。

さらに上から下まであらゆる階級の人々がこれまでないほど私の身を案じている、なぜなら私に対し悪事がたくらまれているという噂が絶えないから、と告げてくれるのだ。

 

(この章、了)