第51章 ワシントンの似非ハワイ人たち

WASHINGTON – PSEUDO-HAWAIIANS

前編

 

 

 1897年1月22日の金曜日、私は従兄弟たちやウィリアム・リー夫妻その他多くの友人たちにお暇を告げた。

4週間に渡る私のボストンでの暮らしが本当に意味深く快適なものとなり、時が過ぎるのも忘れるかと思うほどだったのは、彼らのおかげである。

そしてその夜の汽車で私はワシントンに向かった。

 

 

リリウオカラニのワシントン訪問を伝えるイブニング・スター紙1897年1月23日付

 

 

 ジュリアス・A・パーマー船長に個人秘書として同行してくれるようお願いし、その日から8月7日まで彼は私の一行に加わった。

その日彼が休暇を申請すると、すんなり許可がおりた。

それもこれも彼がどんな公務に対しても常に誠実に献身的に勤めてきたからである。

 

 パーマー船長はかつてホノルルで、私が他の訪問客や報道関係者などと面会した時、その場にいたことがあった。

ボストンに来るまで個人的な付き合いはなかったが、私の故郷ホノルルにいる、結婚で彼の家族と縁ができた人たちのことは知っていた。

それより何より、彼のハワイの人々に寄せる関心、それに非常に高潔で名誉を重んじることで知られる人柄が私には頼もしく思われた。

 

加えて、合衆国の事情や作法に詳しい人間の協力が私には必要だった。

ハワイ人秘書のジョセフ・ヘレルへもいたが、彼はこれまで海外旅行を経験したことがなかった。

 

 パーマー船長が、若き日ハワイを訪れた王政時代当時のことも、革命政府の支配する1893年以降のことでも、ハワイに関するあらゆる事情に通じていることを私は承知していた。

私が言及した他の多くの人々と同じく、彼もまた王政転覆の直後にハワイに行き、実権を握った宣教師党にすっかり気に入られ、こびへつらわれていた。

だがどんな時も彼は静かに自分の状況を吟味していた。

そしてあれこれ考え合わせた結果、ハワイの人々には自分自身の政府のあり方を選ぶ権利が認められるべきだし、合衆の力で彼らの選択を守らねばならない、そしてその場合ハワイの女王の憲法上の権利は否応なしに復元されるのが筋であると彼は全力で請け合った。

 

 ボストンにいるあいだ、私は何かにつけ、「あなたのアメリカ訪問には何か政治的な思惑があるのか」そして「大統領に会うつもりか」となんどもなんども尋ねられた。

その時は自分の目的については何も語らないのが賢明と思えたのだが、馬鹿正直に答えていたら、今では真逆の成り行きとなっているだろう。

 

私がサンフランシスコに到着した後最初のホノルルからの便で、先住ハワイ人愛国者団体からの書類が届いた。

それら組織についてはここでもすでにたっぷり話してある。

そしてこれら我が祖国の代表者団体の面々は、ハワイ全体のためになるようなある手段をとってくれと私に懇願していた。

同様の趣旨のさらなるメッセージが私がボストンの友人たちを訪問している間にも届けられた。

 

 受け取った連絡は、直接であれ書式のものであれ、個人からであろうと上記の各団体組織からであろうと全て、ある一つの望ましい結果をひたすら唱えるものであった。

それは、1892年と93年に合衆国を代表していた人物たちによって我々から不当なやり方で取り上げられた以前の政治体制を回復させること、そして、これを回復することがハワイ人に対して行われた不正を正すことであり、憲法の上でも、またハワイ人自身の選択によっても(ハワイ人には完全な権利がある)、ハワイの人々に女王を回復すべしとクリーブランド大統領に求めることであった。

 

さらにこのことはアメリカ合衆国がいわゆるハワイ共和国に対して出した、今日までで唯一の命令の中にあったものであり、その命令では自分自身の政治体制を選ぶことはハワイ人の権利であると大統領もよく承知していた。

その一文が今日実際に文字通り実行され、そしてハワイ人がそれを維持されること、それがハワイの人々や私が求めるすべなのだ。

 

 ボストンで受け取った二つ目の書類の束はマッキンリー大統領に宛てたもので、すでに私が受け取っていた、ただ在任中のグローバー・クリーブランド卿宛てというだけの別書類と同じだった。

これらの文書に添付して他の書類もあり、それらは真のハワイの国民の代表としての全権を私に、ハワイの女王としてだけでなく個人的にも託することが示され、その際にいかなるやり方でも私の判断は、美しい島々を創造主に太平洋のあの美しい島々を与えられしハワイ人のために行われなくてはならない、と書かれていた。

 

ジョセフ・ヘレルへ氏にも委任状が発行され、私とともに行動する権限が与えられていた。

彼は、革命政権によって参政権だけでなくアメリカの首都でのあらゆる代表権を奪われ、合衆国の役人たちの軽はずみな行動によってもたらされたこの国家的な不正の救済をアメリカに対して求めてやまないハワイの人々から選出されていた。

 

 私が今ここでハワイの人々というのは、この土地の子どもたち、つまりハワイ諸島の先住民とその子孫について言っている。

ハワイ代表と称する二つの使節団が併合目的で過去四年の間しばしばワシントンを訪れていた。さらにそれ以外にも個別に送り込まれている連中がいて、先住民族の生来の権利、どれほど弱小な国でも国を愛する人々が心から大切にしている権利をだまし取ろうと手を貸していた。

近年、このような異人たちがハワイ人を自称している。

 

 彼らは間違ってもハワイ人ではない。

王政下で要職にあり、その地位を保ち維持するために厳粛なる宣誓をしたものもいたが、彼らはずっとアメリカ人としての権利も捨てることはなかった。

彼らが私の政府を転覆させ、ジョン・L・スティーブンスが創り上げた属国(彼がそう書いている)の地位に自らをおいた。彼らはそこでは自分たちをアメリカ人と規定している。彼らがスティーブンスにハワイ政府ビルにアメリカ旗を掲げるよう訴えたのもそういうことだ。

 

革命政府が喜んで自らの支配を別の名前をつけた時、彼らは共和国を名乗った。

アメリカ国民の賛意を得るため彼らは合衆国の独立記念日を自分たちの建国記念日にもしたし、アメリカ国民であると主張する数々の演説を行った。

そんなことをホノルルで散々やっているくせに、ワシントンに来るとハワイ人を自称しているのだ。

 

(中編に続く)