第49章  悲しみを忘れるための旅 (前編)

A CHANGE OF SCENE TO FORGET SORROW

 

 完全に自由の身になると、よその国へ、どこであっても構わないからとにかく気分転換ができる場所へ行きたい、という気持ちがムクムクと沸いてきた。 

サンフランシスコの数多い知人たちに想いを馳せたり、湾の対岸にあるオークランドで暮らす夫の親戚たちを思い出したり。

そんなこんなであの街に出かけようと決め、私は早速ひそかに準備に取り掛かった。

 

1896年12月5日、朝食のあと仲良しのキア・ナハオレルア夫人とともにドール大統領の屋敷へ馬車で出向いた。

入っていくと、彼は椅子から立ち上がり、さっと私に近寄って手を差し出したので私はその手を取った。

私たちに椅子をすすめ、彼は私に「こんなに早い時間からわざわざ足を運んでくださるとは光栄の限り、いかなる御用でしょう?」と尋ねた。

 

私は、サンフランシスコへ旅をしようと思って、と話した。

サンフランシスコよりさらに先にいくつもりかと彼が聞くので、多分ボストンの街にいる親戚を訪ねると思う、と答えた。

それからもしかしたら大西洋を渡って、英国にいる姪のカイウラニ王女のところもいくかもしれないと付け加えた。

 

それを聞いてドールは妻を呼んだ。

すぐに彼女は部屋に入ってきて私に如才なく笑って挨拶をした。

にこやかな会話の中で夫妻は私を非常に心配し気遣ってくれた。

冬の真っ只中にそんな場所へ旅をするなんて、と。

ボストンの気候は、彼らがいうには、とんでもなく厳しいものだ。

特に馴染みのない者にとっては恐ろしく寒いので、彼らは彼の地の冬がどれほど危険か、くれぐれも準備を怠らぬように注意するよう言った。

彼らの親切な心遣いにお礼を言い、私はいとまを告げた。

 

大統領は非常に慇懃に私を馬車までエスコートしてくれて、私と同行の人たちの分の旅券も外務省から届けましょうと自分の方から申し出てくれた。

そうして馬車が庭から出ていくときには彼は丁寧にお辞儀までして、私たちを見送った。

 

 帰る途中、従兄弟カラニアナオレ王子(訳注:①)に旅立ちの挨拶をして、私は自宅に戻った。

自宅にはほんのちょっと立ち寄るだけのつもりだった。

が、フイ・カライアイナのD・カラウオカラニ議長とウィリアム・ホワイト、それに女性愛国連盟中央委員会の議長をしているジョセフ・ナヴァヒ夫人が私を待っていた。

3人は私が今すぐにも出発するところであるのを知り、さすがに驚いた様子だった。

だが私のトランクも荷物もすぐに運ばれるばかりの状態だったので、私の考えに黙って賛意を示してくれた。

 

 

    左から、David Kalauokalani,      William Pūnohu White,              Emma Nāwahī

 

 

 手短な説明と指示をやりとりしたあと、家内のみんなにお別れの挨拶を伝え、私たち一行は埠頭へ向かった。

埠頭に着くとJ・O・カーター卿の姿が目に入った。

夫人と家族と一緒に私を見送ろうと待っていたのだ。

他にも数名の友人がいた。

本当にわずかな人数だったのは、私がわざと自分の出発を口外しないでおいたためだ。

インディペンデント紙社主のF・J・テスタ氏と握手したが、彼は私に会って本当にびっくりしたようだった。

そうして船の側面を上に伝う舷門を、カーター氏に付き添われて登った。

 

 私に割り当てられた部屋をちょっと見てから甲板に戻ると、ジョージ・C・ポッター少佐(ドールの支持者)がすでにそこにいて、私の旅券を差し出した。

外務大臣W・O・スミスの署名で、ハワイのリリウオカラニに対しハワイ政府の保護のもと国外往来の許可を与え、またハワイ政府の代表者すべてに私を保護するよう求めるものだった。

 

 だが一つ、どうしても気になったのは、この書類を作るに際して夫、ドミニス知事の姓が記載されていなかったことだ。

連中がかつて例のあの書類に私に何がなんでも署名させようとしたその名前を組み合わせた結果、全く私の名前でもなければ私の法的効力を持つ署名でもなくなってしまったあの名前が。

連中はそのことに気づかなかったのだろうか。

私がしたことになっている「王権放棄」に彼らが要求したあの署名は一体どうなってしまったのだろうか?

 

旅券は私に随行するジョセフ・ヘレルへとキア・ナハオレルア夫人のぶんもあった。

 

 

キア・ナハオレルア夫人、リリウオカラニ女王、ジョセフ・ヘレルへ

 

(中編に続く)