~~~後編~~~

 

ワシントンプレイスでは、夫が大喜びで私を迎えてくれた。

が夫がひどく弱々しく見えるのが気がかりだった。

そしてこの時から彼は日に日に衰弱していき、やがて死の朝を迎えた。

 

 私はこれから何が起きるのかもわからないまま、ただ部屋で見守るしかなかった。

そのときベッドに寝ている彼が私にもっと近くにと手招きし、私は彼の言葉に従った。

サミュエル・パーカーとW・T・シーワード少佐がほぼ同時に入ってきて、少しの間一緒にいてくれた。

屋敷の向こう側の広いベランダには、私の友人の若い女性数名や、夫の忠実な従者マイナルル、召使のメアリー・カミキ、ケアマル、カヴェロたちが腰を下ろしていた。

ほどなくして主治医のトルーソー医師が入ってきて、さっと診察すると、「患者を休ませなくては」と言い、その場にいる人たちに部屋から出ていくよう身振りで合図した。

 

それで彼らはベランダへ退がり、私だけがベッドに横たわる夫のそばに一人残った。

一時ごろのことだった。

寝ている彼の足元の方に寄って、彼がぐっすりと眠っているのがよく見えるところに立った。

そうやってほんの数分立っていた時、かすかな震えが彼の身体に走るのに気づいた。

すぐさま彼のそばに駆け寄り、それから慌てて控えていた友人達を呼んで、医師を呼び戻した。

患者を診察すると、彼は「ご臨終です」と言った。

 

 この世を去るほんの数分前、夫はある独特な手の動きを見せた。

それはかつてフリーメイソンの朋友達がお祈りするときに見た、あの動作だった。

このとき、彼の魂は地上から羽ばたいて、目に見える世界の向こうの、より大きくより素晴らしき同胞たちの中に入っていったのだろうか?

 

 主治医トルーソーはドミニス知事の死にすっかり沈み込んでしまった。

彼と夫の間には長い年月にわたる友情というものがあった。

そして二人は誰よりも温かい尊敬を互いに寄せ合っていたからだ。

 

ただ事実のみを淡々と書いてみたが、この文章から彼が亡くなったとき私が立った一人きりで夫の傍にいたことがわかるだろう。

 

だがその場にもおらず、事実のかけらも知り得ようの無い人たちの口から、世にも非道な噂が流された。

 

神様、私と、私の夫の思い出を踏みにじったあの人たちをお許しくださいますよう。

 

 ドミニス知事の葬儀行事についてどんなふうにすべきかを決定するための緊急閣僚会議が開かれた。

その晩、亡骸はイオラニ宮殿に移され、安置された。

1891年8月27日のことだった。

通例の君主崩御に対する葬送の礼が、私の夫に対してもふさわしいというのが一同皆の希望であり、閣議決定であった。

それで、殯(もがり)も、儀仗兵も、メイソンの同胞の不寝番、その人々にレイを持ってくるおつきの婦人たちも、そのレイ、花飾り、儀礼の羽飾りを持ったカヒリ係などなど、万事において我が兄カラカウア国王陛下の葬儀について私が以前記したようなやり方が何から何まで採用された。

 

 最後の儀式が行われる日がやってきた。

ドミニス知事は、兄王に与えられたあらゆる全ての礼を同じように尽くされて、永遠の安息の地に納められた。

葬列の、彼の死を心から悼む数多くの会葬者たち、彼らが今まさに私がここに述べたような数々の好意によって、私の悲しみを少しでも和らげようと手を尽くしてくれたこと、そして彼らの思いやりに満ちた心遣いに対する感謝を、私は決して忘れることはないだろう。

 

 

ドミニスの訃報を伝える当時の新聞記事

the Daily Bulletin,   Aug.28, 1891